moyacore

モヤコレ(moya core) : 日々の生活のなかで感じるさまざまな「モヤモヤ」を共有し合う「コレクティヴ」。またその「モヤモヤ」の「コレクション」を指す。そうやって「コレクトネス」とは何かを考えていきたい。それが"core"になるはず。

想起する都市:隈研吾の建築論

1.はじめに

 開催前からいくつもの問題を抱え、コロナ禍の影響により延期を余儀なくされた東京オリンピックパラリンピック大会2020(以下、「東京オリパラ」と表記)が閉会して7カ月が過ぎた。本大会に限らず、オリンピック・パラリンピック開催国における大会に向けた建設ラッシュとそれに伴う国内建設費や不動産の高騰についてはよく言及されていることで、一部では不動産価格は五輪後に下落するとも言われていたようだが、どうやら本大会後はそうなってはいない*1。それどころか、わけてもマンションバブルは堅調で、閉会した2021年9月時点ではマンションの不動産価格指数は前年度比の13.0%増を推移し、2021年のマンション価格は平成バブル期を超えたと報じられている*2

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図1 不動産価格指数*3

 高層ビルの建設計画もいまだ話題に欠くことがなく、東京都新宿に限ってみても2023年春に竣工予定の新宿TOKYU MILANOは高さ225m、新宿駅西口に2029年に竣工予定の再開発ビルは高さ260mに及ぶ計画があるとのこと。

 世界最高を誇る高層ビルといえばアラブ首長国連邦ブルジュ・ハリファだ。高さは828mにも及び、本年中の完成を予定しているマレーシアのPNB118(高さ644m)より200m近くの差をつけている。また、サウジアラビアのジッダ・タワーは完成すれば1000mを超えるといわれていて、日本でも2045年東京湾に1700m級の超高層ビルを建設する計画があるらしい。

 高層化する建築には象徴性がある。たとえば19世紀末、ニューヨークのマンハッタンにおける摩天楼は資本家の権威を示す象徴として立ちあがり、高層化が激しく競われてきた。このような建築の高層化はしばしば「男性的欲望」と関連づけて論じられているように、高層ビルが絶え間なく建ち続ける背景にも男性的な欲望の問題があるようだ。

2.男性的欲望の建築

 思想史家の田中純は、フロイト精神分析における「幼児の性器体制」の理論を援用し、19世紀末から20世紀初頭のオーストリア・ウィーンの建築を分析している。そこで田中は「あらかじめ失われた〔母の〕ペニスの代理」であるフェティッシュとして建築装飾を解釈し、オーストリアの建築家アドルフ・ロースの無装飾の建築に対する当時の不快感ついて、「一種の去勢恐怖と関係してはいないだろうか」と指摘している*4。つまり、田中によれば建築装飾への欲望は他でもなく男性の欲望を表象している。このことは、同様にして高層化する建築についても言える。

 フェミニスト建築家のレスリー・カレス・ワイズマンは20世紀における都市の摩天楼を「家父長制の頂点」と喝破し、それが「大きさやまっすぐさ、力強さという男性的神秘」に根付き、建築の高層化競争が「人間のアイデンティティと生活の質を損なう一方で個人の認識と支配」を求めていると批判している*5。また、スティーヴン・グラハムは近年の超高層建築を「究極に無駄な超富裕層の傲慢の体現」であり、「ファリック」ともいえると指摘している*6。ファリック(phallic)というのはペニスを意味するphallusの形容詞形で、ギリシア語のphallósに由来している。これらの議論を参照するまでもないかもしれないが、高層化する建築もそれがフェティッシュとしてのペニスを象徴していることは明らかだろう。田中の指摘に沿って言い換えれば、建築の高層化は男性の欲望の表象ということになる。ワイズマンは、このような建築環境に対し女性の「不可欠な需要」(essential needs)を反映させる権利を要求しなければならないと主張している*7

 オランダ生まれのアメリカの建築家で理論家でもあるレム・コールハースは、著書『錯乱するニューヨーク』に、マンハッタンの建築家が自身の建てた高層建築の衣装を着て演じるバレエ「ニューヨークのスカイライン」の写真を載せ、このバレエに女性の集団が登場しなかったことから「建築、特にマンハッタンにおけるその突然変異的様態は、厳密には男性のために追及されてきた」と指摘する。そして、こう続ける。

ところがステージに現れた四十四人の男たちの間にはたったひとりの女性が混じっている。エドナ・コウワン嬢、またの名「洗面器ガール」である。
彼女は洗面器を自分のお腹の延長のように抱えている。二本の蛇口は、彼女の内部とつながっているようにさえ見える。男たちの潜在意識から直接出現したような彼女は、ステージの上で建築の内臓の部分を象徴するために立っている。またはもっと正確に言うなら、高さへの希求とテクノロジーの昇華に対する抵抗の証である。人間の肉体機能から引き起こされる困惑を、そのステージ上でも持続させるべく彼女はそこにいるのである。*8

 コウワンの「内部とつながっているようにさえ見える」蛇口は、要すればコウワンの内臓につながっているとコールハースは示唆しているのか。しかし、建築の内臓としての水道を舞台でひとりしかいない女性に演じさせるのは男性建築家の困惑をステージ上で持続させるため、というコールハースの説明には疑問が残る。それでは「たったひとりの女性」に演じさせる必要はないからだ。むしろ、コウワンは高層建築の衣装をまとう男性たちの中で「水場を担う女性像」としての役割を与えられている、と解釈する方が自然ではないか。つまり、この「洗面器ガール」は高層建築の時代にあっても女性が炊事場の水仕事を押し付けられていることを端的に示しているように思われる。「ニューヨークのスカイライン」の次に付されたコウワンの「洗面器ガール」の写真のキャプションには「「新しい時代は……女性(フェミニスティック)の時代だ。」」と引用された文言が記載されている*9が、それはむしろこの「新しい時代」がいかに女性のための時代ではなかったかを強調している。

 

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図2 左「ニューヨークのスカイライン」 右「洗面器ガール」*10

3.非男性的建築

 ワイズマンの主張は男性の欲望を表象するような建築をなくせというものではなく、同時に女性の欲望を表現する建築を建てよというものでもなかった。つまり、そういった男性的な建築と女性の「不可欠な需要」を反映した建築が必ずしも対立するというわけではない。しかし、今もってなお高層化を志向するマッチョな建築競争は男性性に親和性が高いように思える。その男性性が強調された建築が林立する都市社会が、男性性に馴染まないひとの生活に適した環境をつくるだろうか。むしろ、そういった男性性の過剰な競争から脱して非男性的な建築を志向することでマッチョな都市社会を解体していくことが必要ではないか。

 まとめると、非男性的建築は現代建築における男性的欲望の過剰さを去勢させるためにこそ考えられる必要がある。それでは、男性的欲望の建築競争から距離を置いていくことでそれは可能だろうか。建築家隈研吾の「負ける建築」は、そういったマッチョな競争に乗らない建築を志向している。そこで、ここではその隈研吾の建築についてみていこうと思うが、あえて女性建築家を扱わないのは、隈の建築における不能性に起因している。

 たとえば建築のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞を女性として世界で初めて受賞したイラク生まれの英国の建築家ザハ・ハディドの建築は曲線を多用する極めて目立った外観が特徴で、視線を集める強さを持っている。むろん、全米建築家協会によれば2020年時点でも建築士として登録されている女性は全体の17%でしかない*11ことからも建築業界が男性支配的なのは明らかで、建築コンペティションにおいても審査員の男性に評価されるデザインが選ばれたであろうことは想像に難くない。そしてハディドがその中で秀でたデザインを描いたのは彼女の強さであることは疑いようもないが、それは紛れもなく男性支配の業界における強さだった。隈の建築も同様に、その男性支配の強い業界で評価されている建築ではあるが、隈の建築思想は自覚的にもその強さを示すものではなく、むしろその弱さこそを主題にしている。隈の弱さの建築が評価されるということは、逆説的には建築における強い男性支配に綻びが表出しているともいいうる。その可能性も見据えながら、ここでは隈の建築論についてみていきたい。

4.隈研吾の「負ける建築」

 隈研吾は、戦後日本の建築界における第4世代をけん引する代表的な建築家だ。同世代には同じく世界的に活躍する妹島和世坂茂がおり、これは丹下健三を代表とする第1世代、槇文彦磯崎新らの第2世代、安藤忠雄や伊藤豊雄らの第3世代に続いている。ポストモダニズムの建築家として知られる隈研吾は木を多用することから「和の大家」とも呼ばれているが、その隈が建築思想として繰り返し提唱しているのが「負ける建築」である。隈は戦後復興や高度成長期の際にコンクリートを用いて作られた視覚的に目立った建築を「強い」建築あるいは「勝つ」建築として批判しており、このような周囲の景観から際立つ建築ではなく、それを受け入れて馴染む建築として「負ける建築」を志向している。

 隈は新国立競技場についての著作で自身の設計について次のように語る。

建築の設計にあたって、ぼくがいつも意図していることが二つあります。一つは「なるべく建物の高さを低くしたい」ということ。もう一つは、「地元の自然素材を使いたい」ということ。*12

 これは「負ける建築」に通じており、実際に東京オリパラのメイン会場となった国立競技場をみるとわかりやすい。

 周知のとおり、現在の国立競技場は2015年7月に当時のザハ・ハディドによるデザイン案の整備費が当初の予定額から大きく膨れ上がったことを理由に白紙撤回され、やり直しコンペにおいて隈研吾建築都市設計事務所大成建設、梓設計の共同企業体による設計施工案が採用された。ハディド案はキールアーチ*13とも呼ばれる2本の巨大なアーチを用いた構造が特徴的で、高さは75mに及んだ。確かに、それが実際につくられていれば神宮外苑の森とはなじまない奇抜な巨大建築であったといえる。2012年にハディド案が設計協議における最優秀賞に選定されたが、翌年には建築界でも槇文彦が疑義を呈する論文「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」*14を発表し、その是非をめぐって議論が展開されるようになっていった。槇は当時の週刊朝日の記事においてハディド案に対して次のように批判している。

今度採用された競技場のデザイン案は、目前にむき出しのコンクリートの壁が威圧的にそそり立つ。競技開催中は人が集まりざわめくが、周囲の人とは無縁なのです。しかも実際に稼働するのは一年のうち50~60日。残りの300日は壁が立ちはだかる「沈黙の土木架構物」です。
都市というものはできるだけ開かれて、建物と人間の間に、ヒューマンな雰囲気がつくられるべきです。新国立競技場の設計には、それがないんです。あまり楽しい場所にはならないと思うのです。*15

 このハディド案に対して、隈案は高さを49mまで下げており、国立競技場の周辺を実際に歩いてみても、競技場は周囲の樹木に隠されるほどだ。

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図3 国立競技場(筆者撮影)

 また、地元の自然素材を用いるという点について、この国立競技場には東京都にとどまらず日本全国47都道府県の木材が用いられている。これは国立のスタジアムとして東京オリパラを代表する会場となるゆえのことで、一つの象徴性を帯びるものであるが、高さを上げて派手な外観によって象徴性を持たせるのではないところからもこれが「負ける建築」を意図して設計されていることは明らかだろう。

 しかしながら、「自然」に傾注することが保守的立場に向かいやすいことにも注意する必要がある。社会学者の橋迫瑞穂は出産や妊娠において女性が自然分娩や自然食、引いてはスピリチュアリティに魅かれやすいことを指摘している。橋迫によれば、この場合のスピリチュアリティは女性の権利を守るためのフェミニズムが未熟であったゆえの受け皿として機能しており*16、そのような自然主義は家父長的な家族における女性像、あるいは妻というイメージに繋がりやすく、ナショナリズムにも親和的ということだ。実際に隈が国籍や地域を分けて自然素材を国家的なものと繋いで語っているのも無関係ではないだろう。隈は新潟県刈羽郡の「陽の楽家」に用いた和紙に渋柿とコンニャクを塗りその耐久性能を高めたことに関して、この技術が第二次世界大戦時に旧日本軍が用いた風船爆弾にも活用されたことを次のように述べている。

当時の日本の大気圏の気流分析技術は世界一であり、和紙を渋柿とコンニャクで強化する技術も完ぺきで、結果、アメリカを震撼せしめる兵器が完成したのである。
(中略)
どこからともなくとんでくる、きたならしい薄紙でできた風船が、原子爆弾の国を、おびえさせた。再び渋柿とコンニャクの力を借りて、超高層相手にそんな大逆転ができたら最高じゃないか。風船爆弾のストーリーを聞いて、僕らの気持はさらに盛り上がったのである。*17

 一方で、隈は懐古主義的な木造を否定しており*18、コンクリートを全否定して木造へ向かおうとしているのではなく、「生活の変化に対応して建築を自由に変化させることができる」*19木材の性能や、木材の不燃化などの技術的な進歩*20を受けて、木が安価な素材でありながら高い質を備えていることもしばしば強調している。

 また、自然素材を用いるうえで重視されるのはその有限性だ。隈は「コンクリートが持つ自由自在の特性から何かが生まれるのではなくて、むしろ制約のある素材だからこそ何かが生まれる」といっており*21、またその有限的な素材からつくられる建築について著書『点・線・面』において更なる議論を展開している。そこで隈は絵画を点・線・面の構成として分析したロシアの美術理論家であるヴァシリー・カンディンスキーを批判的に紹介しながら、カンディンスキー構成主義的な「点・線・面」を退け、物理学における超弦理論ドゥルーズの「襞」の議論を援用して「点・線・面」を次のように再定義する。

ドゥルーズのこの〔襞の〕物質観は、物質の最小単位は点ではなく、弦の振動だとする超弦理論を言い換えたものに見える。物質が相対的であることを突き詰めていく先に、弦や襞があらわれ、その音色として、物質が再定義される。点・線・面を突き詰めていけば、点・線・面の境が消え、物質とは点・線・面の集合ではなく、点・線・面の振動であり、響きであると再定義される。*22

 建築の素材が点として、線として、あるいは面として、重層的に繋がり重なりあって振動するのは素材が有限であるためだ。その一方、コンクリートは一つの巨大な構築物の建築を可能にして点・線・面の織り成す重層性を排除する素材ともなりうるもので、それゆえにモダニズムのコンクリート建築は批判される。

 まとめると、隈の「負ける建築」は高層化を目指さずに周囲の環境を引き受ける建築を志向しており、それは男性的欲望を満たしきれない不能の建築ともいえるものだった。一方で、隈は「建築自体はどうしようもなく強く、勝つ宿命から逃れられない」といっており、大切なことは建築が「どんなに負けようが、負けたふりをしようが、それでもまだまだ強いという事実を自覚することである」という*23。このことは、建築の高層化や大規模化とは異なる「強さ」をいっているように思える。どういうことか。

 隈は「『建築の時代』への併走」を余儀なくされた建築家の建築における「批評性」について、既存の建築の様式やその運動を乗り越える批評性が付きまとってきたことを言及している。また、現代においてはその要請あるいは「建築的欲望」が「消滅してしまった」ため、建築家は「はじめて建築を取り戻す」のだという*24。この指摘は、現代の建築が特定の様式や運動に捕らわれないポストモダンの状況にあることだけでなく、建築家が要請に応じてつくることで仮託してきた建築における責任/応答可能性(レスポンシビリティ)を取り戻すということをも示唆している。隈は次のように述べている。

オープンな社会の中で、なおかつ必要とされる建築は何か。それを素直に思考することから始めればいいのである。もしそこで何らかの回答に到達したならば、その建築の必要性を人々に説けばいい。人々を見事に説得しきれた時にのみ、建築家ははじめて仕事が与えられる。*25

 この建築家の責任/応答可能性によって、建築は「建築の時代」の要請によるものとは別の批評性、あるいは解釈可能性を強く帯びることになる。そして、これこそが隈がいう建築が宿命的に持つ「強さ」ではないか。

5.「非ファルス的膨らみ」

 ドゥルーズの有限性の議論に着目し、その接続よりもむしろ切断の重要性について議論を展開した哲学者の千葉雅也は、「環境に溶け込むような建築像ではない建築のあり方」のひとつに「非ファルス的膨らみ」としての建築を提起しているが、隈の建築はこの建築のあり方でもあるように思われる。

 千葉は建築におけるファルス概念を3つに分けて説明しており、それによれば周囲に溶け込み複雑に絡み合う関係の結節点としてのモノに対しその関係を解消する「切断的に一個である」建築、あるいは「アカウンタビリティを破棄している建築」が第1にあり、これは「他のすべてのものを全体化し、自身だけが特権的なものとして超越的に存在する」*26。これはまた「それ以外のすべてをそれのみに従属させる「単一の支配的な例外者」」*27ともいえる。隈が批判するモダニズムにおけるコンクリートの建築は、まさしくこの「切断的に一個である」建築といえる。

 第2の建築について、千葉は哲学者グレアム・ハーマンのオブジェクト指向哲学の議論を参照している。千葉によれば、ハーマンのオブジェクト概念は「存在者の根本的な複数性を主張する」一方で、それは「依然としてファリック」なものだ。つまりハーマンに依拠すれば、「ファルスが複数化しており、単一の例外者を認めず、人間の特権性を破棄している。それゆえ、オブジェクト一個一個が別々のファリックな存在となって」いる*28。したがって、例外者が複数存在するため、ここでは人間主義的な単一の建築は避けられることになる。なお、隈も、江戸時代の浮世絵師である歌川広重の「大はしあたけの夕立」や「庄野」とイギリスのロマン主義の画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーやジョン・コンスタブルの風景画を比較しながら後者の人間中心主義を批判している。隈によれば、イギリスの風景画家による自然が「依然として明確な形態を持たない、曖昧でぼんやりとした存在」として表現され、「船や建築物などの明快な形態を持つ対象」とは対比的に描かれた人間中心主義を抱えていたのに対して、広重の浮世絵は、風景をぼかして描く描写や遠近法的な描写によって対比的に人工物を際立たせた奥行きの表現ではなく、「グラデーショナルに線を変化させ、種類の違う線でレイヤーを作りながら」自然と人工物ないし身体を「スムーズにつなげようと」していた*29。つまり、広重の描いたグラデーショナルな自然こそ隈が重視した自然の表現であり、それは隈が再定義した「点・線・面」の同一線上にある。

 以上の第1と第2の建築に対して千葉が提示する第3の建築は、「非ファルス的に、切断的に一個」の建築で、「非ファルス的膨らみ」と呼ばれる。これは第1と第2の建築にあった無限の可能性を「途中で忘れたかのように成立してしま」い、偶然にもその可能性が有限化されてしまっている建築である。言い換えれば「例外」とその他すべて(=「通常」)という対立構図、あるいはジャック・ラカンのいう「男性の式」から外れ、「単一の例外者が存在せず、それと相関的である「他のすべて」もない」、つまり「女性の式」へと向かう建築である*30。しかし、一方でそれは「「他からくっきり区別されている」という、いわば「準-ファルス劇」な特徴」を残そうとしている*31。これは隈が「負ける建築」において「強さ」が残っていることと相似の関係にあるといえる。千葉の説明によれば「非ファルス的膨らみ」とは次のようになる。

それは、ファルスに似ているけれどもファルスではないような「可能性の膨らみ」です。しかし、無限のポテンシャルが無限の持続で展開されるのではありません。何らかのヴォリュームを主張しているものでありながら、ファルスではないもの。*32

 隈の「負ける建築」における「強さ」は、建築的欲望の消滅によって取り戻される解釈可能性のことといえるが、それはまた千葉のいう「何らかのヴォリュームを主張しているものでありながら、ファルスではないもの」とも言い換えられる。したがってそれは「切断的に一個である」ことでアカウンタビリティを破棄すると同時に解釈可能性を持ち、そこに建築を建てることに対するレスポンシビリティを建築家に与える建築ということになろう。

 以上の議論から隈の「負ける建築」における「非ファルス的膨らみ」としての建築像が見いだされた。すでに述べたように千葉はそれが「女性の式」へと向かう建築であることを指摘しているが、これは女性的欲望を表象する建築につながるだろうか。最後にこのことを検討して結びとしたい。

6.女性的欲望の建築

 すでに田中がフロイトの「幼児の性器体制」の理論に依りながら男性的欲望の表象をウィーンの装飾建築に見出したことについてみてきたが、田中は同様にフロイト理論に依拠して女性的欲望の表象をも検討している。田中は、フロイトによる少女における男根期の「自分のペニスがないという事実ゆえに、これから去勢されるかもしれないという去勢不安はない代わりに、ペニスをもちたいと願うペニス羨望というかたちで去勢コンプレックスを」もち、「やがて少女はペニスへのこの願望を破棄し、赤子を持ちたいという願望にそれを転換する」という議論を踏まえて、男性的欲望の表象が「見られる」対象であったのに対して女性的欲望の表象を「住まわれる」空間にみようとしている。これは明らかに胎児が宿る子宮が示唆されており、またここで田中はロースのミュラー邸において内部空間にさらに内/外を分節した空間がつくられていることに着目し、内部と外部の分裂が「内部に向けて幾重にも入れ子状に反復されている」と指摘している*33。つまり、胎児にとって子宮とは外部空間であるが、それは妊婦の体内という内部空間であるという倒錯がこのような解釈を可能にしているのは明らかだ。

 田中の議論に従えば、ショッピングモールは女性的欲望を表象しているといえる。ショッピングモールは、その多くが低層でフロア面積が大きく、多様な店舗がその内部にさらなる内/外の分節を生じさせており、個々の店舗が連なることで全体として一つのモールを作る。だが、それだけではない。写真家の大山顕は、ショッピングモールに「窓がない」ことに着目し、「店の倉庫などが外壁側におかれているので、お客さんがモールの内側で窓を見ることが」なく、ショッピングモールにおいては「内と外が逆転している」と指摘している*34。つまり、ショッピングモールにおいては内部こそが建築の表側になっており、倉庫のような外部は裏側となる。これはまさしく内部空間が外部化するという子宮的な空間だといえるだろう。

 ドイツの思想家であるヴァルター・ベンヤミンは、『パサージュ論』において、人々が見る「集団の夢」、つまり集団的意識が深い眠りに落ちていくような「時代が見る夢」の「形象」の帰結として「19世紀のモードと広告、建築物や政治」を捉えている。しかし、とりわけパリのパサージュを目的もなくただウィンドウから商品を覗いてはふらつく「遊歩者」はその「集団の夢」から覚醒することで、そうした「形象がもっている歴史的な指標」の解読が可能になるとみている*35。「覚醒する」というのは、言い換えれば「「かつてあったもの」を夢の想起において経験すること」であり、それこそが「目覚めの世界としての現在を経験するための技法」だ*36。ショッピングモールに訪れる無数の客もまた、モール内をふらつき店先の商品を眺める。彼らの眼差しがパサージュにおける遊歩者のそれと同様であれば、ショッピングモールの遊歩者はそのショッピングモールという子宮的な空間に宿る胎児だといえるだろうか。また、内/外の分節が内部に向かって反復する建築空間にある商品や広告といった「過去の形象」を探し求める遊歩者たちはショッピングモールに限らずとも都市をふらついているはずだ。そうだとすれば、女性的欲望の表象としての建築は、夢を想起して目覚めの世界を生きる子どもたちを生み、歴史を想起する都市をつくるだろう。

7.おわりに

 2022年2月9日、国立競技場に隣接する明治神宮外苑地区の再開発の計画案が東京都都市計画審議会にて承認された*37。この再開発の計画によれば、商業施設を含む高さ190mと185mの2棟の複合ビルが建てられるほか、宿泊施設などが入る高さ80mの複合棟など*38、高さをあえて下げることで神宮の森の景観に馴染んだ設計となった国立競技場より高い複数の建築物が建ち並ぶことになる。隈の設計した国立競技場はザハ案に対して「もう一つパンチがないが」、「現在の日本人は、(……)歴史に残るものより、さまざまな点でコスパの良いものを選択したということであろうか」*39などともいわれている*40。コストをかけて目立つものを作るよりも経済的な、あるいは環境的配慮の視点が建築を評価する指標として浮上しているということであれば、それは時代の要請ともいえて示唆的だが、隈の建築が評価される背景にこのような時代性があると、はたして結論付けられるか。

 新国立競技場のハディド案について、すでに述べた通り建築界を中心に神宮外苑の「歴史的文脈」にそぐわないという批判が相次いだが、こうした批判がハディド不在の場で議論されていることについて建築家の松田達は疑義を呈しており*41、批判者らにはハディド案をベースに改良する意図はあったのか、あるいはハディド案を廃することだけが目的とされていたのか、いずれにせよそこまでの批判を展開した彼らはこの外苑の森の景観を著しく損ねるように思われる再開発計画案について同様の声を挙げているかということにも疑問が残る。

 ハディド案の白紙撤回に関して、これは当時の安倍元首相の決定によるもので、大々的に報道された一方で公式にハディドの設計事務所であるザハ・ハディト・アーキテクツ(ZHA)には通知されなかったようだ。ZHAは白紙撤回について、予算の高騰はデザイン案が原因ではないとする反論を含めた声明*42を公開して安倍元首相に向けて書簡を送ったが、ZHAのプロジェクトディレクターを務めたジム・ヘヴェリンは白紙撤回の決定から1年以上が経過した2015年8月7日に公開された記事にあるインタビューで、返事をまだ受け取っていないと発言している*43

 またハディド案への批判に併せて、国際公開コンペを謳いながらコンペの参加条件が極端に厳しく世界的な建築家でなければ応募できなかったことなど、デザイン案の審査プロセスにも批判は向けられている。当時安保法制に対する批判が高まっていた中で国民の注目を逸らすために犠牲にされたと考えても不自然ではないとの指摘がある*44ほか、オリンピック招致にハディドのビッグネームが利用されていたという批判もされている*45。このような批判をみると、ハディドは東京オリパラをめぐって明らかに政治的に利用されていたように思われる。そして、そのように建築が消費される限りは、建築の象徴性は強さを帯びるばかりだろう。

 以上、隈研吾の建築を中心に男性的欲望の表象ではない建築について検討してきたが、昨今の建築をめぐる情勢をみても現代の建築への欲望は隈のいう「負ける建築」には必ずしもつながらず、まだ「時代が見る夢」の中にあるようだ。隈を評価する声も、あるいは既成事実となったビッグネームにあやかろうとするものだろうか。歴史を想起する都市への道のりは依然として長い。

参考文献

 

TakashiMa

*1:実際オリパラ関係の建設ラッシュは当初開催が予定されていた2020年8月時点で終わっていたはずなので、不動産価格の変動はそれを起点として考える方が正確だろうか。

*2:Bloomberg, 2022.

*3:国土交通省, 2022.

*4:田中, 2011, p. 107.

*5:Weisman, 1981, p. 6.

*6:Stephen, 2016, p. ⅸ.

*7:Weisman, 1981, p. 7.

*8:コールハース, 1999, p. 220.

*9:コールハース, 1999, p. 221.

*10:コールハース, 1999, ページ: 219,221.

*11:The American Institute of Architects, 2020.

*12:隈, 2016, p. 22.

*13:キールは船の竜骨を意味する。

*14:槇文彦, 2013.

*15:週刊朝日, 2015.

*16:橋迫, 2021, p. 179.

*17:隈, 2008, pp. 184-185.

*18:隈, 2020, p. 44.

*19:隈, 2020, p. 227.

*20:隈, 2020, pp. 135-136.

*21:隈, 2015, p. 114.

*22:隈, 2020, p. 48.

*23:隈, 2004, pp. 83-84.

*24:隈, 2004, p. 61.

*25:隈, 2004, p. 61.

*26:千葉, 2018, p. 79.

*27:千葉, 2018, p. 78.

*28:千葉, 2018, pp. 80-81.

*29:隈, 2020, pp. 140-143.

*30:千葉, 2018, p. 84.

*31:千葉, 2018, p. 84.

*32:千葉, 2018, ページ: 84-85.

*33:田中, 2011, p. 122.

*34:東・大山, 2016, p. 85.

*35:ベンヤミン, 2003, p. 8, 186.

*36:ベンヤミン, 2003, p. 7.

*37:東京新聞, 2022.

*38:新宿区ユニバーサルデザインまちづくり審議会, 2021.

*39:THE PAGE, 2020.

*40:すでに述べたように建築素材を地元で調達するなど、コストをかけないことについて隈自身もしばしば言及している。

*41:松田, 2015.

*42:The Huffington Post, 2015.

*43:TimeOut, 2015.

*44:五十嵐, 2020, p. 8.

*45:飯島, 2014, pp. 19-20.