moyacore

モヤコレ(moya core) : 日々の生活のなかで感じるさまざまな「モヤモヤ」を共有し合う「コレクティヴ」。またその「モヤモヤ」の「コレクション」を指す。そうやって「コレクトネス」とは何かを考えていきたい。それが"core"になるはず。

呪いの言葉

 新しくやってきた相談員さんはわたしを占うとすぐ、にこやかな顔でこう告げた。

「あなたは2歳年上の人と結婚するわよ」

 ああ、そんなの知りたくなかった。これまで、何度そう思ったことだろう。当時まだ14歳、中学2年の幼いわたしも10年経った今のわたしも、この予言じみた忌まわしい言葉にずっと縛られ続けている、そんな気がしている。

 

 たしか学習相談という名目だったか、生徒をあらゆる面からサポートする相談員がわたしの通っていた中学校には常駐していた。1階の端の教室が相談室として解放されており、なにか相談事や悩み事がある人はいつでも利用していいことになっていた。そこに新しく赴任してきた相談員の噂が耳に入るようになったのは中学2年の初夏のこと。どうやらその人は占いができるらしい。聞きつけた生徒たち(ほとんどが女子だった)は毎日のように相談室に通い詰めて、われ先にと占いをお願いしていた。

 その相談員さんは誰でも快く受け入れ、タロット、透視(?)、手相を見るなどして、それぞれに的確なアドバイスをくれた。多くの生徒の悩みというのはだいたいが恋愛に関することで、同世代の友だちとする淡くて爽やかな恋愛話よりも占いという行為の刺激的な魅力に引き込まれた生徒たちは、占われるたび結果にかかわらずキャーとはしゃぎまわっていた。そのうちのひとりにもちろんわたしもいて、その当時長らく片想いしていた同級生の男の子との行く末を見てもらったり、どうすれば上手くいくのか熱心に聞いたりしていた。

 そのことについてふたつの後悔が残っている。ひとつは、その相談室は本来、学校生活にうまく馴染めない生徒が静かに、ゆっくり彼らのペースで過ごすための場所であり、わたしたちのように単にたのしみを求めて通っていい場所ではなかったということ。そういう生徒が安易に彼らの平穏を奪っていたかもしれないということ。誰もが利用できるとはいえ、あまりにも配慮が足らなかったよな、と大人になったわたしは当然遅すぎるけれども反省している。そしてもうひとつの後悔は以下にある通り。

 あるとき友だちが自分の結婚相手を知りたいと相談員さんにすがったことがあった。わたしはひどく驚いた。まだ今よりも幼く純真無垢で、恋や愛がなんたるかをよく知りもしなかったわたしは(これを書いている今の段階において理解できているかどうかはさておき)当然、誰もが好きな人と結婚するもの、できるものと信じ込んでいた。えっ、誰々くんが好きなんじゃないの、誰々くんと結婚したいんじゃないの、いつか別の誰かと結婚したいの、じゃあ誰々くんはあなたにとって何なの、とかなんとか、相当の衝撃を受けた。横で友だちがこういう人と巡り会うよ、などと言われているのをうわの空で聞いていた。そのせいもあって、まさかの不意打ちパンチを躱せるはずもなく、「あなたは2歳年上の人と結婚するわよ」。相談員さんは、まるでわたしの隣にその人が見えているかのように、わたしとその見えない誰かを祝福するようにやさしい顔を向けてきた。その日は家に帰ってから、誰もいない部屋でこっそり、泣いた。

 

 あれから10年が経ち、わたしは当時の誰それくんとは別の道を当たり前のように歩いている。そしてこの道を振り返ってみれば、なるほど、わたしがなんども恋愛において蹴躓いて転んで切り傷すり傷を作ってきた理由はここにあるんじゃないか。そう思えてきた。

 短くも長くもない、それなりに重ねてきた時間の中で、幾度か人を好きになり、幾度も失敗してきたわけだけれど、そういう恋愛の渦中にあって無意識のうちにわたしはこう思っていた気がする。「この人、2歳年上じゃないんだよなあ」と。自覚的にそれを思って恋や愛を辞めたわけじゃない。ただそれでもなんとなく違和感を覚えて、結婚しないしなあとぼんやり過ごすうちにあれよあれよと終わっていった(もちろんそれと関係なしにわたしが絶望的に嫌いになって終わる好きもあった)。それじゃあちょうど2歳年上の人と出会ってみたらどうなのか。「まさかこの人と結婚……は、ないな……」という調子で、勝手にその人をジャッジして避けてしまう。だってまんまと「2歳年上」に引っかかるような、そんなの、敷かれたレールの上を走らされているみたいで嫌だ。

 そうやって誰かを好きになった後でふと、その先について意識せずとも考えてしまうとき、わたしに付きまとう「2歳年上の人と結婚」問題がいつだってわたしの自由を奪ってきた。誰かを好きになるという本来自由なはずの内なる気持ちがどんどんがんじがらめになって、どうしても苦しくなった。人を好きになっても、結婚するとかしないとか、結婚できるできないとか、そもそも好きがいつかは終わってしまうかもしれないとか、そういう脅迫観念で気が狂いそうになることもあった。「2歳年上の人と結婚」なんて正直どうでもいい、さっさと忘れて囚われないでただ、好きな人を好きでいられたらいいのに……けれどやっぱり、気にしてしまった。ああ、そうか、これは呪いだ。わたしにかけられてしまった呪いだ。「2歳年上の人と結婚」しなければならない、そういう呪いだ。それに気がついたら最後、呪いが導く終わりまで向き合い続けなければならないのかしら……と、もんもんし続けているうちに、わたしはまた別のことに思い至る。

 そもそも、わたしは「結婚」しなきゃいかんのか?

 それこそ根本的な呪いじゃなかろうか。

 

「結婚しなければならない」というなかば強制的な風潮というか慣習を、わたしは確実に窮屈に感じている。いや、わたしだけじゃなく相当数の人が持っている感覚のはず。思えばわたしたちは小さな頃から、最終的に結婚に向かう道へと知らずに誘導されてきた。特に女であるわたしは、「女の子の幸せは結婚」などと周りの大人に言い聞かせられながら大きくなった。結婚できるのは目下のところ「異性」同士。結婚を目指すためには「異性」との恋愛が「理想」とされる。その「理想」によって、わたしたちはもしかしたら他の誰かを愛せた可能性をみずから潰していたかもしれないし、潰されていたかもしれない。あるいは、本当に愛していた人を手放すしかないまでに追い詰められてきたかもしれないし、逆に誰かを追い詰めてしまったかもしれない。結婚の権力に人生の大半を支配され、気づけばこんなに息苦しいところにいるではないか。

 だからといってわたしは結婚という制度に反対というわけではない。結婚は、必要な人にとっては必要な制度だ。それにこれから先、わたし自身がどういう道を選ぶのか、そこをどう辿っていくのか今はわからないけれど、いくつかある選択肢の中に結婚という道も含まれていて、もしかすると誰かと一緒になるかもしれないし、ならないかもしれない、そういう緩くて柔軟な未来をわたしはここから見ていたいと、そう思う。いまだに「2歳年上の人と結婚」だのなんだの頭にちらついてしまうこともあるけれど、他の人の言葉より、自分の声を正直に聞きたい。しかし本来誰もがみずからの生き方を選べるはずなのに結婚にまつわる呪いはあまりにも強固で根深いから、どんな立場の人であろうと「結婚をすれば幸せになれる」とか「結婚をしないと立派じゃない」とか、社会にはびこる耳タコの言説がいとも容易く人生を縛ってくる。時代が流れ、価値観も変わってきているとはいえ、とにかく結婚が人生のゴールやステータスとして求められ、そうすることが当たり前になっているこの社会はとても小さく、狭く感じられる。

 わたしたちの生き方はもっと、自由でいいはずだ。男だって、女だって、そのどちらであってもなくても、結婚したっていいし、しなくたっていい。誰かを好きになったっていいし、誰を愛してもいいし、そもそも誰かを好きにならなくたっていい。ひとりを選んでも、誰かとの生活を選んでも、なにを選んでも好きなように生きていい。今とこの先に思うことがそれぞれ違ったって、いつだってシンプルに、生きたいと思う方を選択できる日々を、わたしたちは願っていい。わたしたちはそうやって生きていいのだ。

 手放しの理想論に聞こえるだろうか? 実は、違う。これは、わたし自身に言い聞かせ、わたしが自由になるための呪い。わたしにかけられたあらゆる呪いを祓うための新しい呪い。わたしは好きに生きてみる、だから今、そう誓うという呪いの言葉を唱えているのだ。

 
Kii