moyacore

モヤコレ(moya core) : 日々の生活のなかで感じるさまざまな「モヤモヤ」を共有し合う「コレクティヴ」。またその「モヤモヤ」の「コレクション」を指す。そうやって「コレクトネス」とは何かを考えていきたい。それが"core"になるはず。

想像のInsecurity

 近所で病院とおぼしき建物が取り壊し中のようだ。その辺りを散歩していた時、前から歩いてきた3人組の1人が耳を疑う言葉を放った。「ウクライナじゃん(笑)」おそらく、取り壊し中の様子を、ロシアによる侵攻で破壊されてしまったウクライナの街になぞらえたのだろう。現地で苦しんでいる人々への想像力を欠いた愚かな発言だが、さすがに呼び止めて注意する気にはなれず、またその権利が私にあるのか確信できず、特段何も言わずに散歩を続けてしまった。

 ここまで明確に不適切とは言えないが、違和感を抱いた発言がもう1つ。ここでは、個人・組織の特定を避けるために、構造だけ残して設定は架空のものとする。グローバルビジネスに関連するセミナーにて、登壇者が「天然ガス禁輸など、ロシアの輸出に関する方針がどう影響するのか考えることも、グローバルビジネスに関わる人にとっては重要ですね」と発言した。内容としては納得がいくものであり、確かにその方針に関する情報を収集し、自身が勤める会社やそこでの業務にどういう影響があるのか、ひいてはその会社が属する業界や日本の産業にどういう影響があるのかを考えることは、優れたビジネスパーソンとして歓迎される行動なのだろう。ただし、そんなメッセージがさらりと放たれている様に、どうにもむずむずしたものを感じている。なぜこうした感情になるのか。自分自身の仮説としては、このビジネス的なトピックがウクライナへの侵攻があったからこそ発生したものであるのに、その侵攻によって人権を蹂躙されているウクライナの人々への思いやりをスキップしていることへの違和感なのだろうと考えている。なんだか、人の尊厳よりも資本主義における実利が優先されている感じ。

 では、ウクライナ侵攻によって生じたビジネスに関連するトピックを取り扱う際には、ロシアへの抗議の意やウクライナの人々への祈りを必ず示すようにすればそれでいいのか。もしそう問われたとしたら、そういうわけでも無いような。話し手のHowに活路を見出そうと考えても、どうも釈然としない。そこで、セミナーにおけるその発言に対してではなく、私自身に目を向けてみる。私は、セミナーにおける発言に対して違和感を抱いたことも1つの理由として、ウクライナの人々に対する想像力を巡らせることができたつもりになっていて、そんな立場から、ある種の上から目線で違和感を抱いていたような気がしてきた。「ウクライナの人々」という、かなり大きな存在に対するざっくりとした想像力は、果たして正しい想像力と言えるのだろうか?  想像しているポーズで満足してはいないだろうか? もっと個別具体の状況をいろいろ知ることが必要ではないだろうか?

 こうした自戒を経て、情報を集めてみる。あまりに凄惨で目を覆いたくなる情報もかなりあって、割とすぐに精神が参ってしまった。妄想ではなく、具体的な情報をもとになるべく適切な想像力を働かせたいが、そうするには自分の心のゲージをかなり消費しないといけないようだ。このことに怖気づいて情報を集めないでいることは、もしかしたら無責任な態度なのかもしれない。正しい想像力を発揮するための情報との向き合い方を、今まさに模索中だ。

 

加藤大