『モヤコレ』とは?
みなさん、はじめまして!
モヤコレ編集部です。
と、言われましても、そもそも『モヤコレ』をご存じないことと思います。そこで今回の記事では(そしてこれがモヤコレ初の記事です!)、わたしたちモヤコレの自己紹介を行わせていただきます。
わたしたちが日々生きるなかで、さまざまなことが起きています。
それはとても個人的な、私的な出来事であったり、またはより広く大きく、予想もつかないほどの社会的な出来事であったり、そのような日常の目まぐるしい変化と事象の間で、わたしたちはそれらを多様なかたちで吸収しながら過ごしています。
そしてそれらは、必ずしもわたしたちが喜びをもって受け入れられるものであるとは限りません。ときにはわたしたちにはコントロールできないほどの惨事である場合もあります。 目下ウクライナではいまだ安心して眠れる夜は訪れておらず、コロナ禍の情勢も落ち着く兆しは見えていません。そのような解決していない問題について、また今この瞬間にも続いている理不尽な事態について、怒りや抵抗の感情を忘れ、麻痺した日常に戻っていく人もあって、それにモヤモヤと渦巻く感情を抱くこともあって。その渦中にあってわたしたちは、毎日生きながらそのようなモヤモヤを飲み込み、溜め込まなければならないこともきっとあるでしょう。
でも、その心のうちのモヤモヤを、忘れてしまうのは違う気がする。
だってここには、確かな違和感があった。
それを忘れないために記録したい。
そのための場がここ、『モヤコレ』です。
わたしたちはこれからさまざまなテーマについて、エッセイや批評、論文など形式は自由に、少しずつ記事をあげていきます。大学生や会社員など、いろんな立場にいるわたしたちが、ひとつのテーマから見えてくる多角的な問題や日々のあれこれを、みずから立ち止まって考えられるように。モヤモヤがここにあったというその痕跡を残しておけるように。そして誰か、この場を見つけてくれたあなたの日常に、立ち止まって考える時間をもたらすきっかけになるように、そう願って。
それでは、これからどうぞよろしくお願いします!
想像のInsecurity
近所で病院とおぼしき建物が取り壊し中のようだ。その辺りを散歩していた時、前から歩いてきた3人組の1人が耳を疑う言葉を放った。「ウクライナじゃん(笑)」おそらく、取り壊し中の様子を、ロシアによる侵攻で破壊されてしまったウクライナの街になぞらえたのだろう。現地で苦しんでいる人々への想像力を欠いた愚かな発言だが、さすがに呼び止めて注意する気にはなれず、またその権利が私にあるのか確信できず、特段何も言わずに散歩を続けてしまった。
ここまで明確に不適切とは言えないが、違和感を抱いた発言がもう1つ。ここでは、個人・組織の特定を避けるために、構造だけ残して設定は架空のものとする。グローバルビジネスに関連するセミナーにて、登壇者が「天然ガス禁輸など、ロシアの輸出に関する方針がどう影響するのか考えることも、グローバルビジネスに関わる人にとっては重要ですね」と発言した。内容としては納得がいくものであり、確かにその方針に関する情報を収集し、自身が勤める会社やそこでの業務にどういう影響があるのか、ひいてはその会社が属する業界や日本の産業にどういう影響があるのかを考えることは、優れたビジネスパーソンとして歓迎される行動なのだろう。ただし、そんなメッセージがさらりと放たれている様に、どうにもむずむずしたものを感じている。なぜこうした感情になるのか。自分自身の仮説としては、このビジネス的なトピックがウクライナへの侵攻があったからこそ発生したものであるのに、その侵攻によって人権を蹂躙されているウクライナの人々への思いやりをスキップしていることへの違和感なのだろうと考えている。なんだか、人の尊厳よりも資本主義における実利が優先されている感じ。
では、ウクライナ侵攻によって生じたビジネスに関連するトピックを取り扱う際には、ロシアへの抗議の意やウクライナの人々への祈りを必ず示すようにすればそれでいいのか。もしそう問われたとしたら、そういうわけでも無いような。話し手のHowに活路を見出そうと考えても、どうも釈然としない。そこで、セミナーにおけるその発言に対してではなく、私自身に目を向けてみる。私は、セミナーにおける発言に対して違和感を抱いたことも1つの理由として、ウクライナの人々に対する想像力を巡らせることができたつもりになっていて、そんな立場から、ある種の上から目線で違和感を抱いていたような気がしてきた。「ウクライナの人々」という、かなり大きな存在に対するざっくりとした想像力は、果たして正しい想像力と言えるのだろうか? 想像しているポーズで満足してはいないだろうか? もっと個別具体の状況をいろいろ知ることが必要ではないだろうか?
こうした自戒を経て、情報を集めてみる。あまりに凄惨で目を覆いたくなる情報もかなりあって、割とすぐに精神が参ってしまった。妄想ではなく、具体的な情報をもとになるべく適切な想像力を働かせたいが、そうするには自分の心のゲージをかなり消費しないといけないようだ。このことに怖気づいて情報を集めないでいることは、もしかしたら無責任な態度なのかもしれない。正しい想像力を発揮するための情報との向き合い方を、今まさに模索中だ。
加藤大貴
呪いの言葉
新しくやってきた相談員さんはわたしを占うとすぐ、にこやかな顔でこう告げた。
「あなたは2歳年上の人と結婚するわよ」
ああ、そんなの知りたくなかった。これまで、何度そう思ったことだろう。当時まだ14歳、中学2年の幼いわたしも10年経った今のわたしも、この予言じみた忌まわしい言葉にずっと縛られ続けている、そんな気がしている。
たしか学習相談という名目だったか、生徒をあらゆる面からサポートする相談員がわたしの通っていた中学校には常駐していた。1階の端の教室が相談室として解放されており、なにか相談事や悩み事がある人はいつでも利用していいことになっていた。そこに新しく赴任してきた相談員の噂が耳に入るようになったのは中学2年の初夏のこと。どうやらその人は占いができるらしい。聞きつけた生徒たち(ほとんどが女子だった)は毎日のように相談室に通い詰めて、われ先にと占いをお願いしていた。
その相談員さんは誰でも快く受け入れ、タロット、透視(?)、手相を見るなどして、それぞれに的確なアドバイスをくれた。多くの生徒の悩みというのはだいたいが恋愛に関することで、同世代の友だちとする淡くて爽やかな恋愛話よりも占いという行為の刺激的な魅力に引き込まれた生徒たちは、占われるたび結果にかかわらずキャーとはしゃぎまわっていた。そのうちのひとりにもちろんわたしもいて、その当時長らく片想いしていた同級生の男の子との行く末を見てもらったり、どうすれば上手くいくのか熱心に聞いたりしていた。
そのことについてふたつの後悔が残っている。ひとつは、その相談室は本来、学校生活にうまく馴染めない生徒が静かに、ゆっくり彼らのペースで過ごすための場所であり、わたしたちのように単にたのしみを求めて通っていい場所ではなかったということ。そういう生徒が安易に彼らの平穏を奪っていたかもしれないということ。誰もが利用できるとはいえ、あまりにも配慮が足らなかったよな、と大人になったわたしは当然遅すぎるけれども反省している。そしてもうひとつの後悔は以下にある通り。
あるとき友だちが自分の結婚相手を知りたいと相談員さんにすがったことがあった。わたしはひどく驚いた。まだ今よりも幼く純真無垢で、恋や愛がなんたるかをよく知りもしなかったわたしは(これを書いている今の段階において理解できているかどうかはさておき)当然、誰もが好きな人と結婚するもの、できるものと信じ込んでいた。えっ、誰々くんが好きなんじゃないの、誰々くんと結婚したいんじゃないの、いつか別の誰かと結婚したいの、じゃあ誰々くんはあなたにとって何なの、とかなんとか、相当の衝撃を受けた。横で友だちがこういう人と巡り会うよ、などと言われているのをうわの空で聞いていた。そのせいもあって、まさかの不意打ちパンチを躱せるはずもなく、「あなたは2歳年上の人と結婚するわよ」。相談員さんは、まるでわたしの隣にその人が見えているかのように、わたしとその見えない誰かを祝福するようにやさしい顔を向けてきた。その日は家に帰ってから、誰もいない部屋でこっそり、泣いた。
あれから10年が経ち、わたしは当時の誰それくんとは別の道を当たり前のように歩いている。そしてこの道を振り返ってみれば、なるほど、わたしがなんども恋愛において蹴躓いて転んで切り傷すり傷を作ってきた理由はここにあるんじゃないか。そう思えてきた。
短くも長くもない、それなりに重ねてきた時間の中で、幾度か人を好きになり、幾度も失敗してきたわけだけれど、そういう恋愛の渦中にあって無意識のうちにわたしはこう思っていた気がする。「この人、2歳年上じゃないんだよなあ」と。自覚的にそれを思って恋や愛を辞めたわけじゃない。ただそれでもなんとなく違和感を覚えて、結婚しないしなあとぼんやり過ごすうちにあれよあれよと終わっていった(もちろんそれと関係なしにわたしが絶望的に嫌いになって終わる好きもあった)。それじゃあちょうど2歳年上の人と出会ってみたらどうなのか。「まさかこの人と結婚……は、ないな……」という調子で、勝手にその人をジャッジして避けてしまう。だってまんまと「2歳年上」に引っかかるような、そんなの、敷かれたレールの上を走らされているみたいで嫌だ。
そうやって誰かを好きになった後でふと、その先について意識せずとも考えてしまうとき、わたしに付きまとう「2歳年上の人と結婚」問題がいつだってわたしの自由を奪ってきた。誰かを好きになるという本来自由なはずの内なる気持ちがどんどんがんじがらめになって、どうしても苦しくなった。人を好きになっても、結婚するとかしないとか、結婚できるできないとか、そもそも好きがいつかは終わってしまうかもしれないとか、そういう脅迫観念で気が狂いそうになることもあった。「2歳年上の人と結婚」なんて正直どうでもいい、さっさと忘れて囚われないでただ、好きな人を好きでいられたらいいのに……けれどやっぱり、気にしてしまった。ああ、そうか、これは呪いだ。わたしにかけられてしまった呪いだ。「2歳年上の人と結婚」しなければならない、そういう呪いだ。それに気がついたら最後、呪いが導く終わりまで向き合い続けなければならないのかしら……と、もんもんし続けているうちに、わたしはまた別のことに思い至る。
そもそも、わたしは「結婚」しなきゃいかんのか?
それこそ根本的な呪いじゃなかろうか。
「結婚しなければならない」というなかば強制的な風潮というか慣習を、わたしは確実に窮屈に感じている。いや、わたしだけじゃなく相当数の人が持っている感覚のはず。思えばわたしたちは小さな頃から、最終的に結婚に向かう道へと知らずに誘導されてきた。特に女であるわたしは、「女の子の幸せは結婚」などと周りの大人に言い聞かせられながら大きくなった。結婚できるのは目下のところ「異性」同士。結婚を目指すためには「異性」との恋愛が「理想」とされる。その「理想」によって、わたしたちはもしかしたら他の誰かを愛せた可能性をみずから潰していたかもしれないし、潰されていたかもしれない。あるいは、本当に愛していた人を手放すしかないまでに追い詰められてきたかもしれないし、逆に誰かを追い詰めてしまったかもしれない。結婚の権力に人生の大半を支配され、気づけばこんなに息苦しいところにいるではないか。
だからといってわたしは結婚という制度に反対というわけではない。結婚は、必要な人にとっては必要な制度だ。それにこれから先、わたし自身がどういう道を選ぶのか、そこをどう辿っていくのか今はわからないけれど、いくつかある選択肢の中に結婚という道も含まれていて、もしかすると誰かと一緒になるかもしれないし、ならないかもしれない、そういう緩くて柔軟な未来をわたしはここから見ていたいと、そう思う。いまだに「2歳年上の人と結婚」だのなんだの頭にちらついてしまうこともあるけれど、他の人の言葉より、自分の声を正直に聞きたい。しかし本来誰もがみずからの生き方を選べるはずなのに結婚にまつわる呪いはあまりにも強固で根深いから、どんな立場の人であろうと「結婚をすれば幸せになれる」とか「結婚をしないと立派じゃない」とか、社会にはびこる耳タコの言説がいとも容易く人生を縛ってくる。時代が流れ、価値観も変わってきているとはいえ、とにかく結婚が人生のゴールやステータスとして求められ、そうすることが当たり前になっているこの社会はとても小さく、狭く感じられる。
わたしたちの生き方はもっと、自由でいいはずだ。男だって、女だって、そのどちらであってもなくても、結婚したっていいし、しなくたっていい。誰かを好きになったっていいし、誰を愛してもいいし、そもそも誰かを好きにならなくたっていい。ひとりを選んでも、誰かとの生活を選んでも、なにを選んでも好きなように生きていい。今とこの先に思うことがそれぞれ違ったって、いつだってシンプルに、生きたいと思う方を選択できる日々を、わたしたちは願っていい。わたしたちはそうやって生きていいのだ。
手放しの理想論に聞こえるだろうか? 実は、違う。これは、わたし自身に言い聞かせ、わたしが自由になるための呪い。わたしにかけられたあらゆる呪いを祓うための新しい呪い。わたしは好きに生きてみる、だから今、そう誓うという呪いの言葉を唱えているのだ。
スポーツという楽園
この間の年末年始は、2年ぶりに実家に帰省した。いつも、5月の連休と年末年始は帰省するようにしていたから、2年も空いたのは初めてだ。その間に、姉が夫と子どもの3人で暮らすようになったが、車を5分くらい走らせれば会いに行けるので、そこまで大きな変化という感じはしない。もしかすると一番の変化は、テレビ番組をほとんど観なくなったことかもしれない。「観なくなった」という事柄そのものは些細だけれど、家族のコミュニケーションという意味でその変化は大きい。テレビの音で沈黙の気まずさをごまかしたり、番組の内容を無理やり家族の共通の話題にしたりすることが無くなり、それぞれの近況に関してじっくり話せたからだ。
そんな変化に伴い、「テレビのチャンネル権」という概念が無くなった。これを巡って年末年始に激しい争いが繰り広げられていたのも今は昔。全くかまってもらえずどこか寂しげなリモコンを手に取り、父は箱根駅伝を観始めた。思えば父は、大きなテレビがあるリビングでの闘争を早々に切り上げ、隣の和室にある小さなテレビを先におさえてでも、欠かさず箱根駅伝を観たがっていた。当時から私は不思議に思っていた。「ただ走っているのを長時間観て、なにが楽しいのだろう?」球技のような分かりやすいゲーム性があるなら分かる。また、当時は駅伝に限らず陸上競技全般についてそれを観ることの魅力について理解できなかったが、今なら、例えば100m走であればその魅力を言語化できる。選手の長きにわたる鍛錬が刹那に弾けることでもって心を動かされる、というメカニズムが何となくありそうな気がしている。そんな今でもなお、駅伝を観る理由は分からずにいた。むしろ、2年間帰省しない間に東京の会社員生活で身に着けたひねくれ心でもってこのように考えてしまった。
「およそ普通の生活ではありえないような息切れをしている人たちを応援する、不思 議なイベント」 「速く走ると『神』という名を与えられる、不思議なイベント」 ※どこかしこで「神」になれる訳ではなく、5区を圧倒的な速さで走ると「山の神」になれるということらしい。)
これらをTwitterでつぶやいたら、陸上部で長距離走を頑張っていた高校時代の旧友からフォローを外されてしまった。他者の興を削いでまで文句を言いたくなる、そんな自分の未熟さを反省した。選手たちのたゆまない努力や、それを純粋に応援している人の気持ちを踏みにじる権利は私にはない。
しかし、この反省を踏まえてもなお、頭の中をぐるぐるしている考えがある。それは、駅伝に限らずスポーツというものは、男性を無邪気に称揚してよい数少ない領域なのではないか、ということだ。「ポリコレ」にうんざりしている人、換言すると様々な特権と共に生きてきた人たちにとって、スポーツは数少ない「楽園」と言えるかもしれない。箱根駅伝が、いわゆる「甲子園」が、その他国内のスポーツに関する主要なイベントやリーグが、身体が男性の人たちによって占められている。それにもかかわらず、これらに対等なカウンターパートが無いことに対して疑義が呈されているのを、私はあまり見たことがない。
反論は容易に考えられる。「男性のほうがより迫力があるから、それでたまたま男性なのだ」という内容だ。それにしても、今の状況を当たり前のものとして見逃しすぎではないだろうか。そのツケは、スポーツにおける男女の格差として表出している。その極北のひとつと言えるのが、アメリカのバスケットボールリーグ(男性:NBA, 女性:WNBA)だ。NBA選手の平均年俸はWNBAのそれの約90倍*。いくらNBAでのプレーに迫力があるとしても、そしてそれを数値で正確に測定はできないとしても、WNBAの90倍迫力があるということはさすがにあり得ないだろう。WNBAの方が1シーズンあたりの試合数が少ないが、それを加味しても、あまりに差が開きすぎている。ここでもう1つの反論が浮かぶ。「NBAの方がWNBAよりリーグとしての収入が多いから仕方ないではないか」と。この例だと、NBAではリーグの収益の約半分が選手の年俸に支払われているのに対し、WNBAでは約2割にとどまっている。これでもまだ問題が無いと言えるだろうか。
男性によって占められているスポーツを称揚し、消費する。その営みと、こうした格差の問題は無関係でないように思う。「消費するコンテンツ」としてのスポーツが存在する世の中に慣れきってしまっている。迫力や人気といったコンテンツとしての合理性に基づいて、無思考のまま男性を優位に置き続けるということがまかり通っている。もちろん、このことによって男性によるスポーツの価値が無くなるわけでもないし、無くすべきとも思わない。ただし、受け手として「わりかし危険なコンテンツ消費に足を踏み入れている」という自覚は持っていたいと思う。
Forbes JAPAN「平均年俸の差90倍! 男女格差に挑む、WNBAのダイバーシティ改革」https://forbesjapan.com/articles/detail/40094
加藤大貴
渡辺直美とモヤモヤ
筆者は今回、お笑い芸人の渡辺直美氏を目にしたときに覚えるかすかなモヤモヤ感について言語化を試みた。
渡辺氏といえば、お笑い芸人の枠に留まらず、Instagramでは日本一のフォロワー数を誇るトップクラスのインフルエンサーとしても有名であり、他にもWikipediaによれば「司会者、女優、声優、歌手」など多様な肩書きを持つ[1]。筆者自身は渡辺氏のファンというわけではないが、例えばテレビ番組やウェブCM、電車内の広告など日常のあらゆる場面で彼女の姿を見る機会があり、そのたびに同氏の活躍ぶりに驚かされる。だが、そもそも渡辺氏はなぜこれほど各種メディアに引っ張りだこなのであろうか。お笑い芸人としての巧みな話術や明るい笑顔、ファッションセンスなど様々な理由が挙げられるだろうが、筆者は本稿において、特に渡辺氏の体型に注目したい。以下では、渡辺氏を街中で見かけた際に感じたモヤモヤについて、フェミニズムの分野でしばしば聞かれる「ボディ・ポジティブ」の考え方および日本における「ボディ・ポジティブ」の現状と関連付けながら考察する。文中では主観に基づく意見が多く盛り込まれているが、渡辺氏や美容脱毛を行う人を否定する意図はないことをあらかじめ伝えたい。
1.美容脱毛広告と渡辺直美のモヤモヤ
上記の小見出しを見て、「あー、あれのことね」と思ってくれた人がいたら幸いだが、例えばJR線の電車に乗ると、必ずと言っていいほど渡辺氏の姿が載った美容脱毛の広告が目に飛び込んでくる。広告デザインは時期によってバリエーションがあるが、基本的には渡辺氏が中心に置かれていて、そのとなりに2、3人の細身の若年女性が並び、残りのスペースにブランドロゴや施術価格といった具体的な文字情報が並んでいるような印象がある。加えて、記憶の限りでは2020年頃からだったか、主に広告下部に、国連が掲げる「SDGs」の5番目の目標である「ジェンダー平等を達成しよう」のロゴが付いているのを見かける機会が増えた。
こうした美容脱毛の広告を見るたびに、胸中に2つのモヤモヤがよぎる。
①なぜ常に渡辺氏が広告の中心で、他の女性たちは脇に置かれているのか?
②美容脱毛の広告と「ジェンダー平等を達成しよう」のメッセージは両立するのか?
まず、①については、渡辺氏が広告塔なのだから当たり前と言われるかもしれないが、広告に登場する女性たちの肌の露出に目を向けたい。筆者が最近目にした広告では、前述の構図に従い、渡辺氏の他に2人の女性モデルが映っていたが、渡辺氏の両サイドにいるモデル2人は体をくねらせ、腕や脚等の肌の露出が多いのに対して、渡辺氏はひじから下の部分が出ている程度の露出具合であった(参考画像参照)。施術の効果として、毛のない肌の美しさをアピールするならば、細身のモデルがもっと前面に立ったほうが良い気がするし、渡辺氏の肌露出を増やすという手も考えられる。カラフルな服装の渡辺氏が中央にいることで目をひくものの、脱毛の広告としては、同氏をここまで前面に出す必要性は感じられない。
次に、②については渡辺氏に直接関係する話ではないが、時に女性に対する社会的抑圧の道具となり得る美容脱毛と、「ジェンダー平等を達成しよう」の言葉に伴う女性解放的なイメージとの間には大きなギャップがあるように感じる。というのも、電車内で見かける美容脱毛の広告の大半は女性芸能人を広告塔に起用しており、恋人(異性)へのアプローチや自分磨きなど様々な文脈のパターンがあるが、女性の美しさを高める「武器」として扱われていることが多い。また、逆のパターンとしては、YouTube上での動画再生時に流れるいわゆる「コンプレックス広告」において、体毛の処理をしていない女性をだらしない「非モテ」人間として見下す描写がしばしば見られる(ちなみに筆者はこの手の広告で男性の体毛未処理を揶揄するパターンにはまだ遭遇したことがない)[2]。加えて、テレビや雑誌で見かける美しい女性芸能人たちの肌も皆そろって「ムダ毛」無きツルスベ肌であり、それが「美」のスタンダードであるような感覚を覚える。つまり、美容脱毛のなされた肌は単に「毛がない」というだけでなく、女性の「美しさ」や「自己管理能力の高さ」、「モテの有無」といった当人のスペックを対外的に示すアイテムとしても機能しており、反対に、脱毛をしていない者は「武器」を持たないため、周囲から美しくもなく、自己管理能力も低く、「非モテ」であるという烙印を押されかねない。そして、繰り返すが、美容脱毛に関するこのような圧力を受けるのは主に女性であり、男性が脱毛をしていなくてもそれが当人のマイナスイメージに繋がる可能性はそれ程高くないだろう(例えばジャニーズの一員でも、すね毛が見えることはままある)。また、美容脱毛は施術する部位や回数にもよるが、数千~数万円、場合によっては数十万円の費用がかかる決して安くない代物であり、女性たちの経済面をも圧迫する。長くなったが、筆者から見れば、大人の女性になるための「通過儀礼」のような顔をしながら、肉体面(美容脱毛はそれなりの痛みを伴うらしい)、精神面、金銭面から女性に圧力をかけてくる美容脱毛の広告に「ジェンダー平等を達成しよう」という文言が添えられている光景は違和感たっぷりなのだ。
2.「ボディ・ポジティブ」と渡辺直美のモヤモヤ
美容脱毛に対する思いのたけを力説してしまったため、渡辺氏の話に戻りたい。写真研究家の小林美香によれば、渡辺氏が美容脱毛広告のイメージキャラクターとして起用されるようになった背景のひとつとして、2010年代初頭から世界的に展開され始めた「ボディ・ポジティブ」と呼ばれる運動の存在がある[3]。ボディ・ポジティブとは、「ジェンダー、人種、障がい、体型にかかわらず、あらゆる体型を平等にあつかうこと」(小林、92頁)を指し、分かりやすい例で言えば、従来のモデルよりも大きめの体型の「プラスサイズモデル」の活躍などが挙げられる。日本でも「日本初の“ぽっちゃり女子"のための本格ファッション誌」と銘打った雑誌『la farfa(ラ・ファーファ)』が2013年から刊行され始めるなど、グローバルなボディ・ポジティブ運動の一端ともいえる動きが見出せる[4]。そして、同誌の創刊号の表紙モデルに渡辺氏が起用されたことが顕著であるが、こうした「あらゆる体型の人を認め合う社会に」という風潮の高まりにバッチリはまったのが、まさに渡辺氏であると考えられる。それどころか、渡辺氏が日本社会にボディ・ポジティブ的な考え方を導入させた立役者だと言ったほうが正しいかもしれない。同氏は今やフェミニストアイコンの一人であるビヨンセを物まねし、太めの体で激しく踊るパワフルな芸風によって一躍注目を集めると、2015年からは体型に囚われず「女の子の持つ感情を表現する」ことを目指し、幅広いサイズ展開を特徴としたアパレルブランド「PUNYUS」を手掛け、人気プロデューサーとしても頭角を表した[5]。また、彼女自身も明るい笑顔とともに、毎度異なるカラフルな服装やパワフルなメイクアップでメディアに登場し、太めの体型も魅力に変える堂々とした立ち振る舞いを見せてきた。まさにボディ・ポジティブを地で行くような存在であり、保守的なジェンダー規範が根強い日本社会においてグローバル・フェミニズム的な女性像に引けを取らない稀有な存在であると言える。実際に、同氏は現在アメリカを拠点にしており、海外のファッションショーに参加するなど国外でも精力的に活動している。
こうして考えると、前述した美容脱毛広告で渡辺氏が常に中心に置かれていることにもやや納得できる部分がある。ここからは筆者の推測だが、美容脱毛のメインターゲット層である若年女性たち(筆者自身を含む)は、男性受けするスキルを指す「女子力」という言葉に内包されるような保守的な「女性らしさ」に日々さらされ、社会的強者である男性陣からの眼差し(あるいはそのような批判的目線を内面化した女性陣からの眼差し)を意識しつつも、同時にSNS等のツールを通じて欧米的なボディ・ポジティブやフェミニズムの考え方、生き方に触れる機会も持ち、恋愛に限らず自己愛を肯定するような、力強く革新的な女性像を目にし、ときに憧れさえ抱く。人びとの内部には保守色の強い「女子力」的あり方と、革新的な「フェミニズム」像が共存しているが、広告上でそうしたイメージを両立させることは難しく、かといってどちらかに振り切れば訴求力が弱まりかねない。加えて、今話題のSDGsへの貢献もアピールしたい…そうしたせめぎ合いのなかで、前述した〈センター:渡辺直美、サイド:肌見せ細身モデル〉の構図の広告が作られたのではないだろうか。つまり、肌見せ細身モデル=美容脱毛ビジネスのメインターゲット層である、他者(特に異性)の目を気にして脱毛する保守的な女性の象徴、対して渡辺氏=欧米的なボディ・ポジティブ思想の影響を受け、他者の目を気にしない(≒脱毛の有無など大きな問題として捉えない)自信にあふれた女性の象徴、である。加えて、後者をより目立つ位置に置くことで女性の主体性の発揮に美容脱毛が貢献しているような印象を与え、そこから「ジェンダー平等を実現しよう」の目標にも結びつく、というわけだ。
これは、脱毛に限らず、渡辺氏が登場するさまざまな商品広告にも通じるイメージなのではないだろうか。「デジタルネイティブ」であり「環境破壊や人種差別といった社会問題への関心が強い」とされるZ世代(1990年代半ば~2012年頃に生まれた若者)を多く含む消費者層にアプローチすべく、時代の潮流に沿った女性表象が求められる中で、SNSの人気者であり従来の「女性らしさ」のイメージを覆す渡辺氏は、消費者に「新しさ」を感じさせる恰好の人材であるはずだ[6]。
まとめ.「ボディ・ポジティブ」の今後とモヤモヤ
最後に少しだけ、「日本にボディ・ポジティブは根付くか?」という点について考えてみたい。筆者は前のパートで、渡辺氏がボディ・ポジティブを日本に持ち込んだ立役者だと述べたが、それでもまだこの思想が社会に広く浸透するまでは先が長いと思う。というのも、特にテレビ界においては、未だ「渡辺直美的」な女性にしかボディ・ポジティブを体現する門戸が開かれておらず、その枠の外にいる体の大きな女性たちは不可視化あるいはデフォルメされているような印象を受ける。「渡辺直美的」というのは、オシャレな見た目で、動きも軽やかで、外見に関する外部の意見を笑いに変えられる能力を有した(=周囲が多少体型をネタにしても許されるような)女性を指し、例えば女性お笑いトリオ「3時のヒロイン」のメンバーが想起される。というより、お笑い分野を除いて、太めの体型の女性が一般的な体型の女性と互角に存在感を発揮しているシーンを日本のドラマや映画等で見る機会はほとんどない。たいていの場合、太った人は細身の主人公を引き立てる脇役として、コミカルな役や食いしん坊役、あるいは中年女性として登場するパターンが多く、そもそも太めの体型の人物が全く出てこないときもある。
さらに、先日はSNS上で、ぽっちゃり体型の女性が主人公の恋愛漫画を実写化した作品において、細身の女優がその役を演じることが判明し、批判の声が挙がっているのを目にした[7]。ストーリー上問題がなければ体型など何でもいい、という意見もあるかもしれないが、太めの女性が恋愛ドラマの主人公ではいけないのか? 太めの女性は笑われる役回りでしか舞台の中心にはいられないのか? プラスサイズの女優を起用することで、世の中の様々な体型の女性たちに肯定的なメッセージを贈る機会になるかもしれないのに! などと筆者のモヤモヤは尽きない。そして、女性の体型を巡るこのような状況下で渡辺氏だけが活躍している状況を見ると、つい「メディアは渡辺直美を使っておけば女性の「多様性」を表現できていると思ってるんじゃないの??」とさえ考えてしまう。もちろん彼女自身の努力とすばらしいパフォーマンスが現在の活躍に繋がっていることは言うまでもないが、メディアが太めの女性の存在を可視化させるにあたって、渡辺氏に頼っている感は否めない。とはいえ、2021年3月、東京五輪開会式の演出プロデューサーであった男性が、渡辺氏の体型を揶揄する演出案を出していたことが明るみに出たのち、容姿に対する侮辱だと批判され最終的にディレクターが辞任に追い込まれた事案からは、コンテンツの受け手側にもボディ・ポジティブ的な思考が浸透しつつあることが感じられる[8]。今後の日本におけるボディ・ポジティブ思想のあり方や、その象徴としてのメディアにおける女性表象の変化について、より一層注目しながらテレビやSNSをチェックしたいと思う今日この頃である。
〈参考文献〉(ウェブ資料は全て2022年2月15日最終閲覧)
小林美香「脱毛広告観察――脱毛・美容広告から読み解くジェンダー、人種、身体規範」、『現代思想』2021年11月号、90-106頁。
田隈佑紀「その広告 行き過ぎていませんか? コンプレックス広告」NHK、2020年9月2日。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/net-koukoku/article/article_20.html
マイナビニュース「Z世代の特徴とは? 価値観やライフスタイルなどを解説」、2021年9月29日。
https://news.mynavi.jp/article/20210929-1978298/
BBCニュース「東京五輪の演出統括者が辞意 容姿侮辱の提案が判明」2021年3月8日。
https://www.bbc.com/japanese/56439085
「ふくよか女子の恋愛漫画「パティシエさんとお嬢さん」が実写ドラマ化でスレンダー女子を起用、TLに悲しみの声が溢れる」-Togetter https://togetter.com/li/1807042
「渡辺直美」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%9B%B4%E7%BE%8E
「la farfa」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
https://ja.wikipedia.org/wiki/La_farfa
「PUNYUS」ウェブサイト https://punyus.jp/
〈参考画像〉渡辺直美氏が登場する美容脱毛広告(2022年1月、新宿にて筆者撮影)
[1] 「渡辺直美」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
[2] 田隈佑紀「その広告 行き過ぎていませんか? コンプレックス広告」NHK、2020年9月2日。
[3] 小林美香「脱毛広告観察――脱毛・美容広告から読み解くジェンダー、人種、身体規範」、『現代思想』2021年11月号、90-106頁。ここでは92頁。
[4] 「la farfa」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。ちなみに、同誌の刊行初期はほぼ毎号渡辺直美が表紙のモデルを務めていた。
[5] 「PUNYUS」ウェブサイトより。
[6] マイナビニュース「Z世代の特徴とは? 価値観やライフスタイルなどを解説」、2021年9月29日。
[7] 「ふくよか女子の恋愛漫画「パティシエさんとお嬢さん」が実写ドラマ化でスレンダー女子を起用、TLに悲しみの声が溢れる」-Togetter
関心と愛のなせる技
何をどうやって書こうかすごく悩んだ。フェミニズムに関連したエンタメの話題が1つ候補にあったのだけれど、特定の名前をわざわざ出すのが躊躇われて、結局最近考えたことを曖昧な言葉でつらつら書いてみることにする。テーマは韓国アイドルとファンの視線だ。
私は韓国のアイドルが好きで、よく音楽を聞くし、Youtubeでアイドルが踊ったり話したりしている動画をよく見る。一生懸命に努力して、ステージで見事に歌い、ラップし、踊り、ニコニコ楽しそうにする彼らに私は元気をもらう。自分ではずいぶん長くK-POPを聴いてきたように思うけれど、1つのグループを特別好きになったのはごく最近のことだ。同じくK-POPが好きな妹に言わせると、私は「アイドルが好きというか、K-POPを音楽として聴いてる印象だったよね」とのことだったから、そのグループを好きになり「韓国アイドル」が好きだと胸を張って言えるようになったように思う。
私が応援しているグループはとにかく素敵だ(推しがいる人は誰でもこう言う!)。ステージ上ではキラキラ輝く。彼らの自信が内側から発光している。歌・ダンス・ラップの実力は言うまでもないが、そもそも楽曲や振り付けの質がいい。衣装がいい。ステージを降りるとソフトな雰囲気で、一人一人考えながら仕事をして生きているように見える。プロフェッショナルだ。身体が健康である限り彼らは絶対大丈夫だろうなという、妙な信頼が持てる。
昨年アルバムをリリースした彼ら。新曲をパフォーマンスしたステージも、主演したトーク番組も全部見た。音楽番組で1位を取って嬉しそうに肩を組んで歌っているのも見た。ソウルでのコンサートもオンラインで見たし、その後の年末年始の怒涛の特別ステージの数々も見た。
彼らはいつも素敵だったけれど、気になることもあった。好きだからこそ、よく目を凝らして見るからこそ、目に付くことがあった。私が好きなグループの場合、それはメンバー間の不平等だった。誰の意図かはわからないが、メンバーの扱われ方に明確な違いがあった。20回以上の音楽番組出演時、パフォーマンスの最後に何度もカメラに抜かれるメンバーと映されないメンバーがいるとか、出演したバラエティ番組のビハインド映像に全く登場しないメンバーがいる(15分超もあるのに)とか。あまりに明らかな差に気付いて私は悲しい気分になった。おかしいと思った。そしてその差にはどんな意味があるのだろうと考えた。
どんなアイドルにも自分の力ではいかんともしがたいことはきっとある。曲/衣装/メイクがよくないとか、出演する舞台が限られているとか、そもそも露出の機会が少ないとか。そういう表面的なことの後ろには、事務所の資金力とかコネとかが絡んでいるのだろう。
そもそも、アイドルは1つのビジネスなのだ。アイドルは仕事としてアイドルをやっている。金と力がものを言う世界で、それは私たちが生きるこの社会の原理と多分同じ。何ら特別なことはない、大きな社会の縮図だ。その構成要員には、当たり前に色々な違いがある。実力の差、運の差もあるし、男女の差、国籍の差もある。色々な差があって、現れ出てくる差がただの「個人差」なのか「不平等」なのか見極めるのは難しい。
- 例えば事務所が違うグループには差が生まれるだろう。大きい事務所に比べて資金がなくて、曲も衣装もあまりお金をかけられないということはあり得る。プロモーションが十分にできないとか、音楽番組に出演する回数も少ないとか。これは不平等とは言えない? 新自由主義の競争原理?
- 同じ事務所に所属するアイドルでも、グループレベルで差が生まれることもある。女の子のグループは男の子に比べてプロモーションに力が入っていないとか。それはなぜ? 男の子のグループの方がファンが多いからとか? ちょっと時期が悪かったとか? 衣装にお金がかかっているグループとそこまで衣装が凝っていないグループがある。コンセプトの違い? 単にスタイリストのセンスの違い?
- グループが同じでも、個人レベルの差があることもある。外国出身のメンバーはあまり話す機会が与えられないとか。韓国語が上手じゃないから? それとも国籍の違いが原因? あまりカメラに抜かれないメンバーがいたりもする。人気順? 単にパート割によるもの?
目に見える差がある。でもその差の原因を「これだ」と指差して、不公平なものであると証明することはできない。その差がどこから来るのかは、画面越しの私たちには見えない。隠されているし、きっと理由は1つではなくいくつも絡み合っている。アイドル本人にもその理由は説明できないかもしれない。
私たちは画面を通してアイドルを眺める。アイドルのビジネス世界を、ファンは大きな大きな愛を持って、鋭く眼差す。好きだという気持ちが私たちの目を開かせて、小さな問題をめざとく見つける。
私も一ファンとして、メンバーの扱いに不平等を感じた。その不平等にモヤモヤして、色々考えを巡らせた。でも考えてみれば不平等なんて、どこにでも転がっている。当たり前にアイドルに限った問題ではない。私の身の回りにもごろごろある。手の届く範囲に、自分の身に降りかかる範囲に。それは女性の話であり、あらゆるマイノリティの話であり、政治の話であり、社会の未来の話だ。友人の話であり、私の話である。でも関心を持っていなければ、自分の近くにある不平等にもきっと私たちは気づかない。無関心のまま、見逃してしまうかも。関心と愛が私たちに気づかせる。その力は偉大だ。
韓国のアイドル業界には世界中からファンの視線が注がれている。それでもまだ何だか首を傾げてしまうところがある。変わらない問題があるように思える。こんなに多くのファンが見ているのに! ジャッジが下されるのに! それでも解決されないマイナスがある。そう思うと、私たちの身の回りの不平等が置かれている状況はもっともっとひどいのではなかろうか。そもそも関心が向けられず、理解が深まらない問題は多い。まだ見えていない問題もたくさんあるだろう。アイドルオタクの熱量は、アイドル業界の問題を解消するにはまだ足りないようだから、今の社会が抱えるさらに大きな問題を解決するにはこの何十倍もの長い時間がかかるだろう。
韓国の音楽番組では、どのアイドルもかわいい笑顔でこう言う。
「たくさんの関心と愛をよろしくお願いします」
韓国語ではきっと自然なこの挨拶は、日本語に訳すとあまりに不自然だ。しかしこの定型文を繰り返すアイドルたちは正しい。私たちの目を開かせるのはやっぱり関心と愛で、それがなくては何も始まらないのだ。たくさんの関心と愛! その範囲を一人一人が拡大できたなら、目に映る世界も認識できる問題の数も広がっていくはずだ。そんなことを考えながら、私は今日も海の向こうで頑張るアイドルを応援する。
いか
Who’s makin’ the rules?
大学で「文化資本」という概念を学んだ時、絶対音感の持ち主やいわゆる「帰国子女」を羨みながらも、韓国のポップカルチャーについてのみ、自分がその文化資本について豊かな側であるという妙な自負を持つことができた。母親は「韓流」のブームに浸かり続けており、その影響で私は小学校3年生の時に『冬のソナタ』を完走するというある種の英才教育を受けた。同じく母の薫陶を受けた姉はK-Popを熱心に聞いていて、その影響で私は、中学校3年生で初めて買ってもらった音楽プレーヤーに相当な数のK-Popの曲を取り込んでいた。そんな私が、少女時代やKARAが巻き起こしたK-Popブームに乗らないわけはなく、高校生の時は狂ったようにこれらのグループの曲を聴いた。大学生になり音楽のサブスクリプションサービスが普及してからは、日本でデビューしているかどうかを問わず、幅広いグループの楽曲を聴くようになった。今でもK-Popには親しんでいて、様々なジャンルを横断した独自の音楽性、寸分違わず揃った振り付け、メンバー同士の関係性などなど、K-Popが持つ様々な要素に魅了され続けている。
…...とここまで語ってきたが、私は韓国語が全くと言ってよいほど分からない。ハングルくらいは読めるようになろうとテキストを買ったものの、文字通りの三日坊主で終わり、恥ずかしながら自分の名前すら書けないままだ。しかし、私のような人を想定してか、世間にはK-Popの歌詞を和訳してくれている親切なブログがたくさんある。好きだと思った楽曲については「●●(曲名) 和訳」と調べて、ざっくりとした意味をつかむようにしている。
K-Popをなんとなく聴き漁り、気に入った曲や人気の曲については和訳ブログを斜め読みする。そんなライトな楽しみ方をしている自分ですら、2019年頃からとある明確なトレンドを感じるようになった。ありのままの自分を肯定するエンパワーメント的な歌詞が増えてきたのだ。中でも、2019年にデビューしたITZY(イッジ)というグループは、このトレンドを生み出した存在で、デビューから1年半の間に出した4つのリードトラックで、自己肯定感を高めエンパワーしてくれるような歌詞を、軽快かつ力強く歌い上げている。
誰かから何と言われても、私は私、ただ、私になりたい I wanna be me, me, me あえて何かになる必要はない。私はただの私の時が完ぺきだから I wanna be me, me, me (ITZY「WANNABE」*)
K-Popにおいて、トレンドが入れ替わるサイクルは非常に速い。そんな中でこうしたエンパワーメント的歌詞というのは、ITZYがデビューから今までトップクラスの人気を集め続けていることもあって、トレンドとしては長く続いている方だと思う。2021年8月には、最大手の事務所であるSMエンターテインメントの人気女性グループであるRed Velvetが、およそ2年ぶりに待望の新曲を出した。
We are makin’ the rules Cause we are Queens and Kings 手をもっと高く 集まるほど美しく Shining bling bling 雨が降っても Strong and Beautiful すべて異なる色で完成したRainbow (Red Velvet「Queendom」**)
「Queendom」と題したこの曲の歌詞は、自己に限らず「私たち」をエンパワーしようとしてくれる。祝祭的な曲調も相まって、聴くといつも気分が上向きになるお気に入りの曲だ。愛用しているSpotifyが年末に「2021年まとめ」と題してパーソナライズしてくれたプレイリストにも、もちろんこの「Queendom」は鎮座していた。
そんな折、1つのニュースがK-Pop界隈をにぎわせた。SMエンターテインメントが、所属している女性アーティストから7名を選抜した「Girls On Top」というプロジェクトをローンチするというのだ。もはやレジェンド的な存在になった少女時代、先ほど言及したRed Velvet、今をときめくaespa、という3グループから2名ずつ選ばれ、それをあのBoAが引っ張るという豪華な布陣。どんな曲やパフォーマンスになるのか、ファンは大いに期待した。個人的には、こうしたスーパーチームが、誰かのエンパワーメントになるような歌詞を届けてくれたらそれは素晴らしいことだと、勝手に胸を高鳴らせていた。
2022年元日。プロジェクトとして初めての楽曲である「Step Back」のパフォーマンスビデオが公開された。急いで、それでいて心して観た。「Incoming」という印象的なサウンドロゴが響く。アメリカの有名Hip-Hopアーティストにも楽曲を提供していることで有名なDem Jointzの作曲だ。たしかにSMエンターテインメントは彼をたびたび起用してきたが、そのほとんどは男性グループの楽曲だった。この事務所に限らず全体的な傾向として、女性グループの曲はある程度可憐または絢爛であることを求められがちで、意欲的なサウンドの楽曲は男性グループにあてがわれがちだと感じていた。それもあり、このサウンドロゴを聴いた瞬間に、この楽曲が素晴らしいものになると確信した。この確信は正しく、ホラー映画のような冷えた雰囲気の独特なトラップビートを乗りこなす7名の歌声とダンスに釘付けになった。
ひとしきり楽しんで迎えた翌1月2日。世間がどれだけ沸き立っているのか確認するためにTwitterで検索をかけてみると、歌詞に対するネガティブな反応であふれていた。すぐさま「Step Back 和訳」で調べると、既にいくつか和訳記事があがっていた。曲全体の大まかな意味は、「私の彼氏は私のもので、あなたとは別の次元にいてあなたには似つかわしくないのだから、Step Backして。」というものだ。たしかに、英語で「Step back, silly girl!」と歌っている箇所もある。今どき、他者(彼氏)を使って相手(あなた)を下げるというのは、なんともイケてない振る舞いだなと思ってしまう。勝手ではあるがこのプロジェクトには期待をしていたぶん、そしてサウンドやパフォーマンスが素晴らしかったぶん、落胆が大きかった。同様に落胆した人はかなり多くいたようで、K-Pop好きの間では「炎上」したと言ってよいだろう。
今回の騒ぎに関して、「Girls On Top」のメンバーに責任があるのだろうか。それは違う。というのも、K-Popという業界においては、質の高い楽曲およびパフォーマンスを効率よく供給していくために、徹底した分業体制が取られていることが多い。「Step Back」に関しても例外ではなく、作詞にメンバーは関与していない。あくまでメンバーは、与えられた歌詞を与えられた曲に乗せて、与えられた振付でパフォームする存在にすぎない。このようにK-Popにおいては、受け手にパフォーマンスが届けられるまでの過程で、演者の意思を取り入れづらい構造になっている。作詞・作曲・振付をセルフで行うグループが増えてきてはいるものの、これはまだ男性グループ中心の動き、かつまだまだ少数派であり、やはりメンバーではない人々による分業が主流だ。幸い、この構造は多くのファンが理解しており、メンバーを責める声はほとんど見られなかった。
しかし、BoAがSMエンターテインメントの役員を務めていることを引き合いに出し、「彼女が止めるべきだった」と主張している大手Webメディアの記事があった。韓国に根付く年功序列の文化や、彼女が歌手として個人的に恩義を感じている人が事務所の上層部にいるであろうことを考慮すると、彼女を責めることはお門違いであろうと、個人的には思う。
やはり、批判すべき対象は事務所の権力者たちではなかろうか。分業ゆえに、彼らに(基本的に、年齢が上の男性に)決裁権が集中し、彼らの一声で分業による成果の使い方や楽曲全体の方向性を決めることができてしまう、そんな疑似的な家父長制が維持されているからだ。もしかすると、私たちをエンパワーしてくれる歌詞も、彼らが経済合理性に基づいて決めた方向性の1つに過ぎないのかもしれない。それはそれで受け入れる。でも、「Step Back」のように誰かを「下げる」歌詞を、演者が本意でなく歌ってしまうことがあるとしたら、それはあまりに悲しいから、やめてほしい。
We are makin’ the rules Cause we are Queens and Kings
ただのお題目ではない、真のQueensが出てこれるようなエンターテインメントになることを願って。
加藤 大貴
*歌詞和訳は公式ミュージックビデオの字幕から引用 https://www.youtube.com/watch?v=fE2h3lGlOsk
** 歌詞和訳は公式ミュージックビデオの字幕から引用 https://www.youtube.com/watch?v=c9RzZpV460k
想起する都市:隈研吾の建築論
1.はじめに
開催前からいくつもの問題を抱え、コロナ禍の影響により延期を余儀なくされた東京オリンピック・パラリンピック大会2020(以下、「東京オリパラ」と表記)が閉会して7カ月が過ぎた。本大会に限らず、オリンピック・パラリンピック開催国における大会に向けた建設ラッシュとそれに伴う国内建設費や不動産の高騰についてはよく言及されていることで、一部では不動産価格は五輪後に下落するとも言われていたようだが、どうやら本大会後はそうなってはいない*1。それどころか、わけてもマンションバブルは堅調で、閉会した2021年9月時点ではマンションの不動産価格指数は前年度比の13.0%増を推移し、2021年のマンション価格は平成バブル期を超えたと報じられている*2。
高層ビルの建設計画もいまだ話題に欠くことがなく、東京都新宿に限ってみても2023年春に竣工予定の新宿TOKYU MILANOは高さ225m、新宿駅西口に2029年に竣工予定の再開発ビルは高さ260mに及ぶ計画があるとのこと。
世界最高を誇る高層ビルといえばアラブ首長国連邦のブルジュ・ハリファだ。高さは828mにも及び、本年中の完成を予定しているマレーシアのPNB118(高さ644m)より200m近くの差をつけている。また、サウジアラビアのジッダ・タワーは完成すれば1000mを超えるといわれていて、日本でも2045年に東京湾に1700m級の超高層ビルを建設する計画があるらしい。
高層化する建築には象徴性がある。たとえば19世紀末、ニューヨークのマンハッタンにおける摩天楼は資本家の権威を示す象徴として立ちあがり、高層化が激しく競われてきた。このような建築の高層化はしばしば「男性的欲望」と関連づけて論じられているように、高層ビルが絶え間なく建ち続ける背景にも男性的な欲望の問題があるようだ。
2.男性的欲望の建築
思想史家の田中純は、フロイトの精神分析における「幼児の性器体制」の理論を援用し、19世紀末から20世紀初頭のオーストリア・ウィーンの建築を分析している。そこで田中は「あらかじめ失われた〔母の〕ペニスの代理」であるフェティッシュとして建築装飾を解釈し、オーストリアの建築家アドルフ・ロースの無装飾の建築に対する当時の不快感ついて、「一種の去勢恐怖と関係してはいないだろうか」と指摘している*4。つまり、田中によれば建築装飾への欲望は他でもなく男性の欲望を表象している。このことは、同様にして高層化する建築についても言える。
フェミニスト建築家のレスリー・カレス・ワイズマンは20世紀における都市の摩天楼を「家父長制の頂点」と喝破し、それが「大きさやまっすぐさ、力強さという男性的神秘」に根付き、建築の高層化競争が「人間のアイデンティティと生活の質を損なう一方で個人の認識と支配」を求めていると批判している*5。また、スティーヴン・グラハムは近年の超高層建築を「究極に無駄な超富裕層の傲慢の体現」であり、「ファリック」ともいえると指摘している*6。ファリック(phallic)というのはペニスを意味するphallusの形容詞形で、ギリシア語のphallósに由来している。これらの議論を参照するまでもないかもしれないが、高層化する建築もそれがフェティッシュとしてのペニスを象徴していることは明らかだろう。田中の指摘に沿って言い換えれば、建築の高層化は男性の欲望の表象ということになる。ワイズマンは、このような建築環境に対し女性の「不可欠な需要」(essential needs)を反映させる権利を要求しなければならないと主張している*7。
オランダ生まれのアメリカの建築家で理論家でもあるレム・コールハースは、著書『錯乱するニューヨーク』に、マンハッタンの建築家が自身の建てた高層建築の衣装を着て演じるバレエ「ニューヨークのスカイライン」の写真を載せ、このバレエに女性の集団が登場しなかったことから「建築、特にマンハッタンにおけるその突然変異的様態は、厳密には男性のために追及されてきた」と指摘する。そして、こう続ける。
ところがステージに現れた四十四人の男たちの間にはたったひとりの女性が混じっている。エドナ・コウワン嬢、またの名「洗面器ガール」である。
彼女は洗面器を自分のお腹の延長のように抱えている。二本の蛇口は、彼女の内部とつながっているようにさえ見える。男たちの潜在意識から直接出現したような彼女は、ステージの上で建築の内臓の部分を象徴するために立っている。またはもっと正確に言うなら、高さへの希求とテクノロジーの昇華に対する抵抗の証である。人間の肉体機能から引き起こされる困惑を、そのステージ上でも持続させるべく彼女はそこにいるのである。*8
コウワンの「内部とつながっているようにさえ見える」蛇口は、要すればコウワンの内臓につながっているとコールハースは示唆しているのか。しかし、建築の内臓としての水道を舞台でひとりしかいない女性に演じさせるのは男性建築家の困惑をステージ上で持続させるため、というコールハースの説明には疑問が残る。それでは「たったひとりの女性」に演じさせる必要はないからだ。むしろ、コウワンは高層建築の衣装をまとう男性たちの中で「水場を担う女性像」としての役割を与えられている、と解釈する方が自然ではないか。つまり、この「洗面器ガール」は高層建築の時代にあっても女性が炊事場の水仕事を押し付けられていることを端的に示しているように思われる。「ニューヨークのスカイライン」の次に付されたコウワンの「洗面器ガール」の写真のキャプションには「「新しい時代は……女性(フェミニスティック)の時代だ。」」と引用された文言が記載されている*9が、それはむしろこの「新しい時代」がいかに女性のための時代ではなかったかを強調している。
3.非男性的建築
ワイズマンの主張は男性の欲望を表象するような建築をなくせというものではなく、同時に女性の欲望を表現する建築を建てよというものでもなかった。つまり、そういった男性的な建築と女性の「不可欠な需要」を反映した建築が必ずしも対立するというわけではない。しかし、今もってなお高層化を志向するマッチョな建築競争は男性性に親和性が高いように思える。その男性性が強調された建築が林立する都市社会が、男性性に馴染まないひとの生活に適した環境をつくるだろうか。むしろ、そういった男性性の過剰な競争から脱して非男性的な建築を志向することでマッチョな都市社会を解体していくことが必要ではないか。
まとめると、非男性的建築は現代建築における男性的欲望の過剰さを去勢させるためにこそ考えられる必要がある。それでは、男性的欲望の建築競争から距離を置いていくことでそれは可能だろうか。建築家隈研吾の「負ける建築」は、そういったマッチョな競争に乗らない建築を志向している。そこで、ここではその隈研吾の建築についてみていこうと思うが、あえて女性建築家を扱わないのは、隈の建築における不能性に起因している。
たとえば建築のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞を女性として世界で初めて受賞したイラク生まれの英国の建築家ザハ・ハディドの建築は曲線を多用する極めて目立った外観が特徴で、視線を集める強さを持っている。むろん、全米建築家協会によれば2020年時点でも建築士として登録されている女性は全体の17%でしかない*11ことからも建築業界が男性支配的なのは明らかで、建築コンペティションにおいても審査員の男性に評価されるデザインが選ばれたであろうことは想像に難くない。そしてハディドがその中で秀でたデザインを描いたのは彼女の強さであることは疑いようもないが、それは紛れもなく男性支配の業界における強さだった。隈の建築も同様に、その男性支配の強い業界で評価されている建築ではあるが、隈の建築思想は自覚的にもその強さを示すものではなく、むしろその弱さこそを主題にしている。隈の弱さの建築が評価されるということは、逆説的には建築における強い男性支配に綻びが表出しているともいいうる。その可能性も見据えながら、ここでは隈の建築論についてみていきたい。
4.隈研吾の「負ける建築」
隈研吾は、戦後日本の建築界における第4世代をけん引する代表的な建築家だ。同世代には同じく世界的に活躍する妹島和世や坂茂がおり、これは丹下健三を代表とする第1世代、槇文彦や磯崎新らの第2世代、安藤忠雄や伊藤豊雄らの第3世代に続いている。ポストモダニズムの建築家として知られる隈研吾は木を多用することから「和の大家」とも呼ばれているが、その隈が建築思想として繰り返し提唱しているのが「負ける建築」である。隈は戦後復興や高度成長期の際にコンクリートを用いて作られた視覚的に目立った建築を「強い」建築あるいは「勝つ」建築として批判しており、このような周囲の景観から際立つ建築ではなく、それを受け入れて馴染む建築として「負ける建築」を志向している。
隈は新国立競技場についての著作で自身の設計について次のように語る。
建築の設計にあたって、ぼくがいつも意図していることが二つあります。一つは「なるべく建物の高さを低くしたい」ということ。もう一つは、「地元の自然素材を使いたい」ということ。*12
これは「負ける建築」に通じており、実際に東京オリパラのメイン会場となった国立競技場をみるとわかりやすい。
周知のとおり、現在の国立競技場は2015年7月に当時のザハ・ハディドによるデザイン案の整備費が当初の予定額から大きく膨れ上がったことを理由に白紙撤回され、やり直しコンペにおいて隈研吾建築都市設計事務所、大成建設、梓設計の共同企業体による設計施工案が採用された。ハディド案はキールアーチ*13とも呼ばれる2本の巨大なアーチを用いた構造が特徴的で、高さは75mに及んだ。確かに、それが実際につくられていれば神宮外苑の森とはなじまない奇抜な巨大建築であったといえる。2012年にハディド案が設計協議における最優秀賞に選定されたが、翌年には建築界でも槇文彦が疑義を呈する論文「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」*14を発表し、その是非をめぐって議論が展開されるようになっていった。槇は当時の週刊朝日の記事においてハディド案に対して次のように批判している。
今度採用された競技場のデザイン案は、目前にむき出しのコンクリートの壁が威圧的にそそり立つ。競技開催中は人が集まりざわめくが、周囲の人とは無縁なのです。しかも実際に稼働するのは一年のうち50~60日。残りの300日は壁が立ちはだかる「沈黙の土木架構物」です。
都市というものはできるだけ開かれて、建物と人間の間に、ヒューマンな雰囲気がつくられるべきです。新国立競技場の設計には、それがないんです。あまり楽しい場所にはならないと思うのです。*15
このハディド案に対して、隈案は高さを49mまで下げており、国立競技場の周辺を実際に歩いてみても、競技場は周囲の樹木に隠されるほどだ。
また、地元の自然素材を用いるという点について、この国立競技場には東京都にとどまらず日本全国47都道府県の木材が用いられている。これは国立のスタジアムとして東京オリパラを代表する会場となるゆえのことで、一つの象徴性を帯びるものであるが、高さを上げて派手な外観によって象徴性を持たせるのではないところからもこれが「負ける建築」を意図して設計されていることは明らかだろう。
しかしながら、「自然」に傾注することが保守的立場に向かいやすいことにも注意する必要がある。社会学者の橋迫瑞穂は出産や妊娠において女性が自然分娩や自然食、引いてはスピリチュアリティに魅かれやすいことを指摘している。橋迫によれば、この場合のスピリチュアリティは女性の権利を守るためのフェミニズムが未熟であったゆえの受け皿として機能しており*16、そのような自然主義は家父長的な家族における女性像、あるいは妻というイメージに繋がりやすく、ナショナリズムにも親和的ということだ。実際に隈が国籍や地域を分けて自然素材を国家的なものと繋いで語っているのも無関係ではないだろう。隈は新潟県刈羽郡の「陽の楽家」に用いた和紙に渋柿とコンニャクを塗りその耐久性能を高めたことに関して、この技術が第二次世界大戦時に旧日本軍が用いた風船爆弾にも活用されたことを次のように述べている。
当時の日本の大気圏の気流分析技術は世界一であり、和紙を渋柿とコンニャクで強化する技術も完ぺきで、結果、アメリカを震撼せしめる兵器が完成したのである。
(中略)
どこからともなくとんでくる、きたならしい薄紙でできた風船が、原子爆弾の国を、おびえさせた。再び渋柿とコンニャクの力を借りて、超高層相手にそんな大逆転ができたら最高じゃないか。風船爆弾のストーリーを聞いて、僕らの気持はさらに盛り上がったのである。*17
一方で、隈は懐古主義的な木造を否定しており*18、コンクリートを全否定して木造へ向かおうとしているのではなく、「生活の変化に対応して建築を自由に変化させることができる」*19木材の性能や、木材の不燃化などの技術的な進歩*20を受けて、木が安価な素材でありながら高い質を備えていることもしばしば強調している。
また、自然素材を用いるうえで重視されるのはその有限性だ。隈は「コンクリートが持つ自由自在の特性から何かが生まれるのではなくて、むしろ制約のある素材だからこそ何かが生まれる」といっており*21、またその有限的な素材からつくられる建築について著書『点・線・面』において更なる議論を展開している。そこで隈は絵画を点・線・面の構成として分析したロシアの美術理論家であるヴァシリー・カンディンスキーを批判的に紹介しながら、カンディンスキーの構成主義的な「点・線・面」を退け、物理学における超弦理論とドゥルーズの「襞」の議論を援用して「点・線・面」を次のように再定義する。
ドゥルーズのこの〔襞の〕物質観は、物質の最小単位は点ではなく、弦の振動だとする超弦理論を言い換えたものに見える。物質が相対的であることを突き詰めていく先に、弦や襞があらわれ、その音色として、物質が再定義される。点・線・面を突き詰めていけば、点・線・面の境が消え、物質とは点・線・面の集合ではなく、点・線・面の振動であり、響きであると再定義される。*22
建築の素材が点として、線として、あるいは面として、重層的に繋がり重なりあって振動するのは素材が有限であるためだ。その一方、コンクリートは一つの巨大な構築物の建築を可能にして点・線・面の織り成す重層性を排除する素材ともなりうるもので、それゆえにモダニズムのコンクリート建築は批判される。
まとめると、隈の「負ける建築」は高層化を目指さずに周囲の環境を引き受ける建築を志向しており、それは男性的欲望を満たしきれない不能の建築ともいえるものだった。一方で、隈は「建築自体はどうしようもなく強く、勝つ宿命から逃れられない」といっており、大切なことは建築が「どんなに負けようが、負けたふりをしようが、それでもまだまだ強いという事実を自覚することである」という*23。このことは、建築の高層化や大規模化とは異なる「強さ」をいっているように思える。どういうことか。
隈は「『建築の時代』への併走」を余儀なくされた建築家の建築における「批評性」について、既存の建築の様式やその運動を乗り越える批評性が付きまとってきたことを言及している。また、現代においてはその要請あるいは「建築的欲望」が「消滅してしまった」ため、建築家は「はじめて建築を取り戻す」のだという*24。この指摘は、現代の建築が特定の様式や運動に捕らわれないポストモダンの状況にあることだけでなく、建築家が要請に応じてつくることで仮託してきた建築における責任/応答可能性(レスポンシビリティ)を取り戻すということをも示唆している。隈は次のように述べている。
オープンな社会の中で、なおかつ必要とされる建築は何か。それを素直に思考することから始めればいいのである。もしそこで何らかの回答に到達したならば、その建築の必要性を人々に説けばいい。人々を見事に説得しきれた時にのみ、建築家ははじめて仕事が与えられる。*25
この建築家の責任/応答可能性によって、建築は「建築の時代」の要請によるものとは別の批評性、あるいは解釈可能性を強く帯びることになる。そして、これこそが隈がいう建築が宿命的に持つ「強さ」ではないか。
5.「非ファルス的膨らみ」
ドゥルーズの有限性の議論に着目し、その接続よりもむしろ切断の重要性について議論を展開した哲学者の千葉雅也は、「環境に溶け込むような建築像ではない建築のあり方」のひとつに「非ファルス的膨らみ」としての建築を提起しているが、隈の建築はこの建築のあり方でもあるように思われる。
千葉は建築におけるファルス概念を3つに分けて説明しており、それによれば周囲に溶け込み複雑に絡み合う関係の結節点としてのモノに対しその関係を解消する「切断的に一個である」建築、あるいは「アカウンタビリティを破棄している建築」が第1にあり、これは「他のすべてのものを全体化し、自身だけが特権的なものとして超越的に存在する」*26。これはまた「それ以外のすべてをそれのみに従属させる「単一の支配的な例外者」」*27ともいえる。隈が批判するモダニズムにおけるコンクリートの建築は、まさしくこの「切断的に一個である」建築といえる。
第2の建築について、千葉は哲学者グレアム・ハーマンのオブジェクト指向哲学の議論を参照している。千葉によれば、ハーマンのオブジェクト概念は「存在者の根本的な複数性を主張する」一方で、それは「依然としてファリック」なものだ。つまりハーマンに依拠すれば、「ファルスが複数化しており、単一の例外者を認めず、人間の特権性を破棄している。それゆえ、オブジェクト一個一個が別々のファリックな存在となって」いる*28。したがって、例外者が複数存在するため、ここでは人間主義的な単一の建築は避けられることになる。なお、隈も、江戸時代の浮世絵師である歌川広重の「大はしあたけの夕立」や「庄野」とイギリスのロマン主義の画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーやジョン・コンスタブルの風景画を比較しながら後者の人間中心主義を批判している。隈によれば、イギリスの風景画家による自然が「依然として明確な形態を持たない、曖昧でぼんやりとした存在」として表現され、「船や建築物などの明快な形態を持つ対象」とは対比的に描かれた人間中心主義を抱えていたのに対して、広重の浮世絵は、風景をぼかして描く描写や遠近法的な描写によって対比的に人工物を際立たせた奥行きの表現ではなく、「グラデーショナルに線を変化させ、種類の違う線でレイヤーを作りながら」自然と人工物ないし身体を「スムーズにつなげようと」していた*29。つまり、広重の描いたグラデーショナルな自然こそ隈が重視した自然の表現であり、それは隈が再定義した「点・線・面」の同一線上にある。
以上の第1と第2の建築に対して千葉が提示する第3の建築は、「非ファルス的に、切断的に一個」の建築で、「非ファルス的膨らみ」と呼ばれる。これは第1と第2の建築にあった無限の可能性を「途中で忘れたかのように成立してしま」い、偶然にもその可能性が有限化されてしまっている建築である。言い換えれば「例外」とその他すべて(=「通常」)という対立構図、あるいはジャック・ラカンのいう「男性の式」から外れ、「単一の例外者が存在せず、それと相関的である「他のすべて」もない」、つまり「女性の式」へと向かう建築である*30。しかし、一方でそれは「「他からくっきり区別されている」という、いわば「準-ファルス劇」な特徴」を残そうとしている*31。これは隈が「負ける建築」において「強さ」が残っていることと相似の関係にあるといえる。千葉の説明によれば「非ファルス的膨らみ」とは次のようになる。
それは、ファルスに似ているけれどもファルスではないような「可能性の膨らみ」です。しかし、無限のポテンシャルが無限の持続で展開されるのではありません。何らかのヴォリュームを主張しているものでありながら、ファルスではないもの。*32
隈の「負ける建築」における「強さ」は、建築的欲望の消滅によって取り戻される解釈可能性のことといえるが、それはまた千葉のいう「何らかのヴォリュームを主張しているものでありながら、ファルスではないもの」とも言い換えられる。したがってそれは「切断的に一個である」ことでアカウンタビリティを破棄すると同時に解釈可能性を持ち、そこに建築を建てることに対するレスポンシビリティを建築家に与える建築ということになろう。
以上の議論から隈の「負ける建築」における「非ファルス的膨らみ」としての建築像が見いだされた。すでに述べたように千葉はそれが「女性の式」へと向かう建築であることを指摘しているが、これは女性的欲望を表象する建築につながるだろうか。最後にこのことを検討して結びとしたい。
6.女性的欲望の建築
すでに田中がフロイトの「幼児の性器体制」の理論に依りながら男性的欲望の表象をウィーンの装飾建築に見出したことについてみてきたが、田中は同様にフロイト理論に依拠して女性的欲望の表象をも検討している。田中は、フロイトによる少女における男根期の「自分のペニスがないという事実ゆえに、これから去勢されるかもしれないという去勢不安はない代わりに、ペニスをもちたいと願うペニス羨望というかたちで去勢コンプレックスを」もち、「やがて少女はペニスへのこの願望を破棄し、赤子を持ちたいという願望にそれを転換する」という議論を踏まえて、男性的欲望の表象が「見られる」対象であったのに対して女性的欲望の表象を「住まわれる」空間にみようとしている。これは明らかに胎児が宿る子宮が示唆されており、またここで田中はロースのミュラー邸において内部空間にさらに内/外を分節した空間がつくられていることに着目し、内部と外部の分裂が「内部に向けて幾重にも入れ子状に反復されている」と指摘している*33。つまり、胎児にとって子宮とは外部空間であるが、それは妊婦の体内という内部空間であるという倒錯がこのような解釈を可能にしているのは明らかだ。
田中の議論に従えば、ショッピングモールは女性的欲望を表象しているといえる。ショッピングモールは、その多くが低層でフロア面積が大きく、多様な店舗がその内部にさらなる内/外の分節を生じさせており、個々の店舗が連なることで全体として一つのモールを作る。だが、それだけではない。写真家の大山顕は、ショッピングモールに「窓がない」ことに着目し、「店の倉庫などが外壁側におかれているので、お客さんがモールの内側で窓を見ることが」なく、ショッピングモールにおいては「内と外が逆転している」と指摘している*34。つまり、ショッピングモールにおいては内部こそが建築の表側になっており、倉庫のような外部は裏側となる。これはまさしく内部空間が外部化するという子宮的な空間だといえるだろう。
ドイツの思想家であるヴァルター・ベンヤミンは、『パサージュ論』において、人々が見る「集団の夢」、つまり集団的意識が深い眠りに落ちていくような「時代が見る夢」の「形象」の帰結として「19世紀のモードと広告、建築物や政治」を捉えている。しかし、とりわけパリのパサージュを目的もなくただウィンドウから商品を覗いてはふらつく「遊歩者」はその「集団の夢」から覚醒することで、そうした「形象がもっている歴史的な指標」の解読が可能になるとみている*35。「覚醒する」というのは、言い換えれば「「かつてあったもの」を夢の想起において経験すること」であり、それこそが「目覚めの世界としての現在を経験するための技法」だ*36。ショッピングモールに訪れる無数の客もまた、モール内をふらつき店先の商品を眺める。彼らの眼差しがパサージュにおける遊歩者のそれと同様であれば、ショッピングモールの遊歩者はそのショッピングモールという子宮的な空間に宿る胎児だといえるだろうか。また、内/外の分節が内部に向かって反復する建築空間にある商品や広告といった「過去の形象」を探し求める遊歩者たちはショッピングモールに限らずとも都市をふらついているはずだ。そうだとすれば、女性的欲望の表象としての建築は、夢を想起して目覚めの世界を生きる子どもたちを生み、歴史を想起する都市をつくるだろう。
7.おわりに
2022年2月9日、国立競技場に隣接する明治神宮外苑地区の再開発の計画案が東京都都市計画審議会にて承認された*37。この再開発の計画によれば、商業施設を含む高さ190mと185mの2棟の複合ビルが建てられるほか、宿泊施設などが入る高さ80mの複合棟など*38、高さをあえて下げることで神宮の森の景観に馴染んだ設計となった国立競技場より高い複数の建築物が建ち並ぶことになる。隈の設計した国立競技場はザハ案に対して「もう一つパンチがないが」、「現在の日本人は、(……)歴史に残るものより、さまざまな点でコスパの良いものを選択したということであろうか」*39などともいわれている*40。コストをかけて目立つものを作るよりも経済的な、あるいは環境的配慮の視点が建築を評価する指標として浮上しているということであれば、それは時代の要請ともいえて示唆的だが、隈の建築が評価される背景にこのような時代性があると、はたして結論付けられるか。
新国立競技場のハディド案について、すでに述べた通り建築界を中心に神宮外苑の「歴史的文脈」にそぐわないという批判が相次いだが、こうした批判がハディド不在の場で議論されていることについて建築家の松田達は疑義を呈しており*41、批判者らにはハディド案をベースに改良する意図はあったのか、あるいはハディド案を廃することだけが目的とされていたのか、いずれにせよそこまでの批判を展開した彼らはこの外苑の森の景観を著しく損ねるように思われる再開発計画案について同様の声を挙げているかということにも疑問が残る。
ハディド案の白紙撤回に関して、これは当時の安倍元首相の決定によるもので、大々的に報道された一方で公式にハディドの設計事務所であるザハ・ハディト・アーキテクツ(ZHA)には通知されなかったようだ。ZHAは白紙撤回について、予算の高騰はデザイン案が原因ではないとする反論を含めた声明*42を公開して安倍元首相に向けて書簡を送ったが、ZHAのプロジェクトディレクターを務めたジム・ヘヴェリンは白紙撤回の決定から1年以上が経過した2015年8月7日に公開された記事にあるインタビューで、返事をまだ受け取っていないと発言している*43。
またハディド案への批判に併せて、国際公開コンペを謳いながらコンペの参加条件が極端に厳しく世界的な建築家でなければ応募できなかったことなど、デザイン案の審査プロセスにも批判は向けられている。当時安保法制に対する批判が高まっていた中で国民の注目を逸らすために犠牲にされたと考えても不自然ではないとの指摘がある*44ほか、オリンピック招致にハディドのビッグネームが利用されていたという批判もされている*45。このような批判をみると、ハディドは東京オリパラをめぐって明らかに政治的に利用されていたように思われる。そして、そのように建築が消費される限りは、建築の象徴性は強さを帯びるばかりだろう。
以上、隈研吾の建築を中心に男性的欲望の表象ではない建築について検討してきたが、昨今の建築をめぐる情勢をみても現代の建築への欲望は隈のいう「負ける建築」には必ずしもつながらず、まだ「時代が見る夢」の中にあるようだ。隈を評価する声も、あるいは既成事実となったビッグネームにあやかろうとするものだろうか。歴史を想起する都市への道のりは依然として長い。
参考文献
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TakashiMa
*1:実際オリパラ関係の建設ラッシュは当初開催が予定されていた2020年8月時点で終わっていたはずなので、不動産価格の変動はそれを起点として考える方が正確だろうか。
*4:田中, 2011, p. 107.
*5:Weisman, 1981, p. 6.
*6:Stephen, 2016, p. ⅸ.
*7:Weisman, 1981, p. 7.
*10:コールハース, 1999, ページ: 219,221.
*11:The American Institute of Architects, 2020.
*12:隈, 2016, p. 22.
*16:橋迫, 2021, p. 179.
*17:隈, 2008, pp. 184-185.
*18:隈, 2020, p. 44.
*19:隈, 2020, p. 227.
*20:隈, 2020, pp. 135-136.
*21:隈, 2015, p. 114.
*22:隈, 2020, p. 48.
*23:隈, 2004, pp. 83-84.
*24:隈, 2004, p. 61.
*25:隈, 2004, p. 61.
*26:千葉, 2018, p. 79.
*27:千葉, 2018, p. 78.
*28:千葉, 2018, pp. 80-81.
*29:隈, 2020, pp. 140-143.
*30:千葉, 2018, p. 84.
*31:千葉, 2018, p. 84.
*32:千葉, 2018, ページ: 84-85.
*33:田中, 2011, p. 122.
*34:東・大山, 2016, p. 85.
*38:新宿区ユニバーサルデザインまちづくり審議会, 2021.
*39:THE PAGE, 2020.
*40:すでに述べたように建築素材を地元で調達するなど、コストをかけないことについて隈自身もしばしば言及している。
*41:松田, 2015.
*42:The Huffington Post, 2015.
*43:TimeOut, 2015.
*44:五十嵐, 2020, p. 8.
*45:飯島, 2014, pp. 19-20.