moyacore

モヤコレ(moya core) : 日々の生活のなかで感じるさまざまな「モヤモヤ」を共有し合う「コレクティヴ」。またその「モヤモヤ」の「コレクション」を指す。そうやって「コレクトネス」とは何かを考えていきたい。それが"core"になるはず。

スポーツという楽園

 この間の年末年始は、2年ぶりに実家に帰省した。いつも、5月の連休と年末年始は帰省するようにしていたから、2年も空いたのは初めてだ。その間に、姉が夫と子どもの3人で暮らすようになったが、車を5分くらい走らせれば会いに行けるので、そこまで大きな変化という感じはしない。もしかすると一番の変化は、テレビ番組をほとんど観なくなったことかもしれない。「観なくなった」という事柄そのものは些細だけれど、家族のコミュニケーションという意味でその変化は大きい。テレビの音で沈黙の気まずさをごまかしたり、番組の内容を無理やり家族の共通の話題にしたりすることが無くなり、それぞれの近況に関してじっくり話せたからだ。

 そんな変化に伴い、「テレビのチャンネル権」という概念が無くなった。これを巡って年末年始に激しい争いが繰り広げられていたのも今は昔。全くかまってもらえずどこか寂しげなリモコンを手に取り、父は箱根駅伝を観始めた。思えば父は、大きなテレビがあるリビングでの闘争を早々に切り上げ、隣の和室にある小さなテレビを先におさえてでも、欠かさず箱根駅伝を観たがっていた。当時から私は不思議に思っていた。「ただ走っているのを長時間観て、なにが楽しいのだろう?」球技のような分かりやすいゲーム性があるなら分かる。また、当時は駅伝に限らず陸上競技全般についてそれを観ることの魅力について理解できなかったが、今なら、例えば100m走であればその魅力を言語化できる。選手の長きにわたる鍛錬が刹那に弾けることでもって心を動かされる、というメカニズムが何となくありそうな気がしている。そんな今でもなお、駅伝を観る理由は分からずにいた。むしろ、2年間帰省しない間に東京の会社員生活で身に着けたひねくれ心でもってこのように考えてしまった。

 

「およそ普通の生活ではありえないような息切れをしている人たちを応援する、不思  議なイベント」 「速く走ると『神』という名を与えられる、不思議なイベント」 ※どこかしこで「神」になれる訳ではなく、5区を圧倒的な速さで走ると「山の神」になれるということらしい。)


 これらをTwitterでつぶやいたら、陸上部で長距離走を頑張っていた高校時代の旧友からフォローを外されてしまった。他者の興を削いでまで文句を言いたくなる、そんな自分の未熟さを反省した。選手たちのたゆまない努力や、それを純粋に応援している人の気持ちを踏みにじる権利は私にはない。

 しかし、この反省を踏まえてもなお、頭の中をぐるぐるしている考えがある。それは、駅伝に限らずスポーツというものは、男性を無邪気に称揚してよい数少ない領域なのではないか、ということだ。「ポリコレ」にうんざりしている人、換言すると様々な特権と共に生きてきた人たちにとって、スポーツは数少ない「楽園」と言えるかもしれない。箱根駅伝が、いわゆる「甲子園」が、その他国内のスポーツに関する主要なイベントやリーグが、身体が男性の人たちによって占められている。それにもかかわらず、これらに対等なカウンターパートが無いことに対して疑義が呈されているのを、私はあまり見たことがない。

 反論は容易に考えられる。「男性のほうがより迫力があるから、それでたまたま男性なのだ」という内容だ。それにしても、今の状況を当たり前のものとして見逃しすぎではないだろうか。そのツケは、スポーツにおける男女の格差として表出している。その極北のひとつと言えるのが、アメリカのバスケットボールリーグ(男性:NBA, 女性:WNBA)だ。NBA選手の平均年俸はWNBAのそれの約90倍*。いくらNBAでのプレーに迫力があるとしても、そしてそれを数値で正確に測定はできないとしても、WNBAの90倍迫力があるということはさすがにあり得ないだろう。WNBAの方が1シーズンあたりの試合数が少ないが、それを加味しても、あまりに差が開きすぎている。ここでもう1つの反論が浮かぶ。「NBAの方がWNBAよりリーグとしての収入が多いから仕方ないではないか」と。この例だと、NBAではリーグの収益の約半分が選手の年俸に支払われているのに対し、WNBAでは約2割にとどまっている。これでもまだ問題が無いと言えるだろうか。

 男性によって占められているスポーツを称揚し、消費する。その営みと、こうした格差の問題は無関係でないように思う。「消費するコンテンツ」としてのスポーツが存在する世の中に慣れきってしまっている。迫力や人気といったコンテンツとしての合理性に基づいて、無思考のまま男性を優位に置き続けるということがまかり通っている。もちろん、このことによって男性によるスポーツの価値が無くなるわけでもないし、無くすべきとも思わない。ただし、受け手として「わりかし危険なコンテンツ消費に足を踏み入れている」という自覚は持っていたいと思う。

Forbes JAPAN「平均年俸の差90倍! 男女格差に挑む、WNBAダイバーシティ改革」https://forbesjapan.com/articles/detail/40094

 

加藤大